雨の日は嫌いだ


 雨の日は嫌いだ。淀んだ大気に、重苦しい、今にも押しつぶされそうな黒い空。そんな瞼の裏の情景を裏付けるように、聞こえてくるのは水のはねる音。 「ふぁ……ねむ」
 眠気に目をこすりながら、憂鬱な目覚めを僕は自覚する。
 ベッドから出ないまま頭だけを動かして窓の方を見ると、薄暗い室内に仄かな光が差し込んでいる。晴れの日と比べるべくもない弱弱しさ。その向こうの窓ガラスには雨粒が張り付いて、時折大きな雫があてどもなく流れ落ちていく。
「……夢なら良かったのに」
 本当は夢でも雨なんて見たくないけど。体を起こして枕元の目覚まし時計を見る、鳴る時間にはまだ早い。今日はすることもないし、このままもう一眠りしよう。眠っていれば晴れるかもしれないし。目覚ましのセットを解除して、僕はまたタオルケットをかぶり直す。
 雨が降っているせいか、服を着ないままでは少し肌寒い。手を覆う毛がわずかに逆立っているのを感じて、温めるように自分を抱きしめる。天気が回復することを祈りながら。
 幸い、二回目の眠りの波はすぐにやってきた。



 どのくらい時間が経っただろうか、眠りが浅くなってきたころに、また音が聞こえてきた。雨の音に混じって何か別の。バシャンバシャンと小刻みに聞こえるそれが足音だと気づくのに、そう時間はかからなかった。多分、彼が来たのだろう。

バシャバシャバシャ……カチャカチャ、キィ……

 予想通り僕の家の前で水を跳ねる音が止まり、続いて遠慮がちにゆっくりと扉が開く。そして中の住人―――僕を気遣うようにゆっくりとした足音が、階段を昇って近づいてくる。

ギィー……

 軋んだ音を立てて、これまたゆっくりと僕の部屋の扉が開かれた。様子をうかがっているのか、少し躊躇するような間を置いて気配が近づいてくる。
「……寝てるのか?」
 膨らんだベッドが彼の目にも入ったのだろう。抑えた低い声がこちらを気遣っているみたい。もう目は覚めているけれど、僕は敢えて身じろぎもせずに、寝たふりを続ける。
「……ふーっ」
 溜息、わずかな後に荷物を置いた音。どすん、と同じタイミングで僕のベッドが揺れる。彼が腰をかけたのだろう。次いで、僕の髪をそっとなでる、大きな手の感触。長い髪が揺れて少しくすぐったいけれど、やはりいつされても嬉しい。
「ホントはさ、起きてるんだろ?」
 一しきり髪を撫で、手を止めた彼は優しい声で僕に語りかける。こんな雨の降る日は、似たようなやり取りが何回かあるから、お互いに慣れている。
「……うん」
 目を開けて微笑むと、すぐそばに僕を見下ろす彼の顔があった。薄暗くて顔は良く見えないけど、きっと彼も笑っているのだろう。僕はおもむろに腕を伸ばすと、確かめるように目の前の頬に触れる。
「おはよ」
「おはよう。 まぁ、そんな時間じゃねえけど」
 苦笑いを漏らした彼の毛皮はところどころ濡れているようで、顔に添えた手にも湿った手触りが伝わってきた。雨の勢いも収まってないし、今日は晴れるのは期待できなさそう。
「ちゃんと拭かないと、風邪ひくよ?」
「ん、分かってるよ」
 ぽんぽんと僕の頭を優しく叩き、そのままその手は滑り込むように無関係なはずの僕の胸元へと降りてきた。
「……聞いてる?」
「ん、冷えて困るからあっためてくれよ」
 悪びれもせず言う彼は、そのまま手のひらで胸元を撫でると、僕が包まっているタオルケットを一気に剥ぎ取りにかかった。
「ちょ、ちょっと……」
「何だ、裸じゃん……期待してた?」
「別にそう言うわけじゃなくて……ただ最近暑いし……」
 慌てて上半身を起こすと、どことなく意地悪げな笑みを浮かべた彼と目が合った。季節柄暑いから全裸で寝ていたのは本当だけど、多分、そんな言い訳などどうでもいいんだろう。
「そっか、じゃあ俺も暑いし脱ごうかなーっと」
「濡れてたくせに……」
 突っ込みに対してはふふんと鼻を鳴らすだけで、まるで聞いちゃいない。彼が頭を振るって水を飛ばすと、こちらまで水滴が飛んできた。
「わっ、もう……」
 手で顔面にかかりそうになった水から庇うも、やはり彼はどこ吹く風。顔を覆った手を外す頃には、目の前には濡れて艶やかに光る、裸の毛皮があった。
「……結構濡れてるじゃん、したいのはいいけど、ちゃんと拭こうよ」
「サンキュ」
布団を剥がされたベッドから立ち上がり、その脇に並べていたタオルを一枚、濡れた肩にかける。急いで来たのだろうか、脱ぎ捨てられたTシャツの肩の辺りも濡れが酷い。
「わぶ、一人で拭けるっての」
「いいじゃない。 どうせ君、適当にしか拭かないだろうし」
 半ば強引ではあるが彼の頭をタオルで包み込むとくしゃくしゃと動かす。一人で拭けるとは言うが、しっかりとやらないのは目に見えている。小さい頃から彼はこう言うことに無頓着だから、細かい事を気にするのはいつの間にか僕ばかりになってしまったような気がする。でも、
(これはこれで、好き)
 そんな今に苦笑しつつも、離れるつもりは毛頭ない。一人そんなことを思いながら、毛並みに沿って肩から背中にかけてしっかりと水を拭きとる。仕上げにもう一度軽く頭を撫でると、首に手を回しておでこに軽くキスをした。
「はい出来上がりー」
「よし」
「って、もう!」
 終わった後の余韻なんて与えるものかと言わんばかり、強引に彼は僕の手を取って自分の方へと引っ張る。抗議の声を上げても抵抗の余地はなく(するつもりもないけど)、あっという間に二人でベッドに転がってしまった。
「あったかい」背中に手を回しながら彼は言う。
「そりゃまぁ、人肌だもの」
「なめらか」髪の毛ごと背中を撫でながら彼は言う。
「そりゃまぁ、ブラッシングしてるもの」
「……硬い」ちらと重なり合った躰を見下ろしながら、彼は言う。
「うっさい……人の事言えないでしょ?」
 触れ合った下腹部に感じる、肌よりも高い温度の固まり。そりゃあ、こういうことになったら期待していないと言えば嘘になるし、反応して当然……と言うかいつの間にこの人ズボンまで脱いだのか。
「……」
「何?」
 動きを止め、じっとこちらを覗き込んでくる、セピアの瞳。きっといつものように意地悪く目が笑っているに違いない。恥ずかしさと相まって、僕は目を逸らそうとした。
 けれど
「どう、したの?」
「ん……何でもない」
「何それ」
 僕の頬に添えられた手が、それを阻む。そして、目の前にあるのは優しく口元を緩めたその顔。
「好きだよ」
「え、えっ……う、うん。 僕も」
 そんな優しい顔で言われたら(調子を崩されていたこともあるけど)ときめかないはずがなくて、反射的に頷いてしまった。恥ずかしさのあまり、顔面が熱くなっていくのがはっきりと分かる。
「そう」
「んっ」
 僕の反応に満足したのだろう、彼はニっと目を細めると僕の口を塞ぎ、空いた手は再び胸元をまさぐり始めた。
 でも
「んぉぅっ!?」
「んっふ……ふ……」
しゃぶりつかれるように口を塞がれ、素っ頓狂な声を上げたのは彼だ。どうやら自分で押したスイッチの事も知らないみたいだ。
「好き……」
 両腕は力いっぱい彼の腕を抱きしめ、尻尾は彼のそれに、こちらも力いっぱい巻きつける。自分でも分かるぐらい口元は緩んでるし、多分普段より甘え方がすごくベタベタしてると思う。
「ああ、分かってる分かってる」
 最初こそ彼は驚いたみたいだったけれど、すぐ僕の様子に気づいたのか、微笑み返すと頭をくしゃくしゃ撫でてくれた。
「ね……欲しい、な」
 ふさふさの胸元に顔をうずめながら、口から熱い吐息と欲望が滑り出す。何もしてないただ触れ合っているだけなのに、擦れ合う股間に湿った感触が伝わってくる。
「俺も、お前が欲しい」
「わっ」
 言うなり彼は体をずらすと、僕を振るい落とすように上体を起こしてしまった。そのせいでずり落ちた僕の目の前には、屹立した彼の熱の塊が。僕が満たされたくてたまらないのを見抜いているのか、挑発的に二、三度震わせて見せる。
「だから、してくれるよな?」
「……うん」
 ぬるっ
 何の躊躇いもなく、僕はそれを口の中へ迎え入れる。多分、今日の興奮の具合から考えると、言われるまでもなくそうしていただろう。恥ずかしさ、麻痺してる?
「うっ」
 受け容れた彼のそれは溶けそうなほどに熱く、既に濡れていた。粘り気は僕のから付着したのかも知れないけど。崩れたあぐらの中心でびくびくと脈打つ肉が愛おしくて、全体を唾液で包むように、丹念に舌を這わせていく。
「ふ……ふ……ぅん……」
「ん……今日は、なっ何か激しいな……?」
 自分でそう言う風に仕立てたくせに、鈍感なんだから。少しばかり不満に思いながらも、何度も顔を上下に動かし、すぐにでも絶頂に導けるように手は根元、膨らんだ袋を優しくなぞる。
(今日はね、火をつけられちゃったから)
 心の中で答えつつ、僕は目元だけで笑って返す。ただ、その火の元はまた別のところから来ているのだけど。少しだけ、ちくりと胸が痛む。
「あー、ダメだって」
 じゅぽじゅぽとわざと湿った音を立てるように舐めていると、押しとどめるように彼の手が頭をぽんぽん叩く。ちょっと今日はストップがかかるのが早いかな? でも息はそんなに荒くなってないけどなぁ。
「んー? 出ちゃいそ?」
「いや、違くってさ」
 ふぅ、と一息ついてから彼は胡坐を崩すと、四つん這いになっていた僕の股間へと手を伸ばしてきた。
「んっ……!」
「お前も、して欲しいだろ?」
 彼の手が僕の硬くなっているそこを握った瞬間、とろりと溢れ出た液が垂れる感覚が分かった。ぞくぞくと背筋を走る快楽の波に、曲がりくねった尻尾がびくんと直立する。
「そりゃあ……うん」
 じっとこちらを見つめる視線から目を逸らしながら、僕は頷いた。どうしよう、どれだけ気持ちよくなっちゃうのかな、そんな不安にも似た期待が中では渦巻いていて、胸のドキドキが止まらない。
「じゃあほら」
「ま、またぁ?」
 よいしょっと、と掛け声とともにちょっと肩を浮かせていた僕は仰向けに転ばされてしまった。僕だって成長してそれなりに重くなったんだけど、よく軽々と出来ちゃうなあ。
「今度は一緒に」
「んっ!」
 再び重なろうと覆いかぶさってきた体、その胸板に手が触れる。でもそのたくましさを感じるより先に、僕のそれが温かいぬるぬるに包まれる感触が伝わってきた。
「ほふぁ、俺のも俺のも」
 ぬるぬると頬に当たる熱いのはさっきまで僕が頬張っていた奴だ。もちろん、彼に促されるままにもう一度口をいっぱいに開け、全体を頬張って見せる。先っちょに少しだけ歯を当てちゃおう。
「ふっんむ……!?」
「んふふー」
 驚いた声と同時に、僕の口の中で熱の固まりが跳ね回る。危なく傷つけちゃいそうだけど、優しく優しく、丁寧に、歯を当てた所を舌で刺激する。
「んんーっ!」
 僕への抗議の声か、低い唸るような声が股間から響いてきた。お返しなのだろう、すぐに僕の敏感な場所を的確に刺激し始める。
「んっ……んんっ……」
「はっ……あふ……」
 お返しにお返し、と際限ないやり取りに、じゅぷじゅぷ濡れた音が大きくなってくる。じゃれあうように、互いに気持ちよくしようとする様は、まるで慰め合っているみたいだな―――激しくなった雨音を意識の外に追い出しながら僕は思った。
(きっとそう、少なくとも僕は―――)
 そこまで考えて、止めた。今は、今日の今だけはこのぬくもりにすがっていたくて、痛みを忘れたくて、いっそう激しく彼を求めた。



「あーあ、どうすんだよコレ」
「やりすぎちゃったね……」
 数時間前の姿と見比べて、変わり果てたとしか形容できない目の前のシーツ。こんな惨状を見たら誰しもやりすぎだと思うだろう。これが心行くまで貪った結果……まぁつまりはそういうことで。
(何回しちゃったかな……)
 少なくとも3回までは覚えてる、ような気がする。おかげでお互いの毛皮にもべっとり、しかも二人とも力尽きて寝てたものだからカピカピだ。尻尾の毛並みの違和感に背筋がぞくぞくする。
「とりあえず洗濯、しなきゃ……」
「そうだな……でも腹、減ったなあ……」
「うん」
 ベッドの前でまごまごしていても仕方がない、さっさとシーツを剥がして洗わないと……隣の彼が空腹を訴えているけれど。
「とりあえずベッドも僕たちも、洗ってからね」
「ああ……気、晴れたか?」
「え?」
 汚れまみれのシーツを剥がす僕の後ろから、彼が問いかけてくる。静かな声のトーンに振り向いても視線は合わず、外を見つめていた。とうに日は沈み、黒く染まった空の中、雨音だけが相変わらず響いている。
「あー……そうだね、ありがとう」
「そうか」
 雨の日はいつもそう。彼は部屋の中で腐っている僕を気遣い、僕を慰めてくれる。そして僕はそれを待ちわびている。逃避の手段として彼を利用していることに、胸が痛まないわけではない。それでも、ずるずると続いているのが今だ。
「じゃあ、下りようか」
「おう」
 雨の日を嫌う僕と、雨の日の彼を―――ひいては雨の日を待つ僕、なんて矛盾した話だろう。そんな事を考えながら、僕たちは1階の風呂場へと降りていく。誰も居ない家だから、当然二人とも素っ裸。と言うより今回の場合はこんなドロドロの状態で服を着たくはないからだけど。
「そう言えば」
「ん? どした?」
「聞いてなかったけど、今日仕事とか無かったの?」
 洗濯機に二人分の洗い物を放り込みながら、僕は尋ねる。彼は確か僕みたいに気まぐれに働く働かないを決めれるような立場じゃなかったと思うんだけど。バスタオルを取り出しているその横顔は戸棚に阻まれて見えないが、少し動きが止まった事だけは分かった。
「……今日、雨だろ?」
「うん」
「だからここにいる」
「……うん」
 だから心配しなくていい、そう言っているように聞こえた。それで彼自身の生活が犠牲になっているのに―――。
「ごめんね?」
 こうやって謝るのも、何度目になるだろうか。バスタオルを手渡してくれた彼は眉をひそめていて、若干不機嫌そうだ。それを否定するかのように黒く太い尻尾はゆったりと左右に動いているけれど。
「何で謝る?」
「……心配も迷惑もかけてるから」
「気にすんなよ、そんな事」
 僕の不安を笑い飛ばすように歯を見せると、彼は風呂場へと入っていく。僕も少し遅れながらその後に続いていく。でも、どうしてだろう一瞬だけ見えた、彼のさびしげな表情が気にかかる。
(何か、やっぱり我慢させてたりするのかな)
ピッピッ……ザァー……
 洗濯機が脱衣所で自動運転を開始する中、僕らもまた体を洗い始める。
とは言っても昔のように二人同時に洗えるほど体が小さいわけでもなく、僕は浴槽に座り込みながら彼のシャワーを見守っている状態だ。気を使って彼がたまにお湯をかけてくれるけれど、やはり全身くまなく濡らさないと洗った気にならない。

「なぁ」
「んー?」
 シャワーの蛇口をいったん閉じると、彼がこちらを向いた。銀の前髪に隠れてその目はよく見えない。
「まだ、外に出たくないか?」
 ああ、と僕は内心で合点がいった。不機嫌なんかじゃなくて、あくまでも彼は、僕の事を考えていてくれているんだなあ。でも、そんなに心配をしてくれるのに、返せる言葉もなく僕はただうなずいた。
「雨の日じゃなければ、出れるよ」
「そりゃそうだろうけどさ」
 自分でも分かっている見当違いな答えに、彼は若干呆れたように肩をすくめる。雨の日にも外に出れるようになって欲しい、傍から見ればとてもささやかな願い。けれど僕はいまだにそれを果たせていない。雨の日の外を考えるだけで、僕は身震いを起こしてしまう。もう、何年も前から。
「ごめん……でもやっぱり雨の日は、嫌いなんだ」
「……」
 彼の視線に耐えきれず、僕は細かく震えながら顔を逸らす。返事はなく、無言のまま再度シャワーが流れ始めた。
ぽん、ぽん
 濡れた手が優しく僕の頭を叩く。けれどそれが一層、僕の胸を痛ませる。
「お前が雨の日嫌いなのは、分かるよ。 俺もお前も、嫌な事が有ったのはいつも雨の日だったもんな」
「うん……」
 同じ時間を過ごしてきたから、僕に遭った事を彼は知っているし、同じように彼に遭った事を僕も知っている。それが未だに彼を苛んでいることも。
「でもな、いつまでもこのままじゃ、雨じゃなくても外に出なくなるような気がしてさ」
「分かってる……」
 不安なのは分かる、逆の立場だったら僕だってそう言うと思う。けれど……
「ごめんね、まだ震えちゃうんだ。 おかしいよね、いつまでも引きずってさ……」
 ましてや、乗り越えられた人が隣にいると言うのに。電灯に透かすように掲げた手は小刻みに震えていて、僕は自嘲気味に笑う。シャワーは出しっぱなしだが、肝心の体を洗う音は聞こえない。こちらをじっと見つめながら、彼はただ立ち尽くしている。
「僕は、何も出来なかった」
 上げた手の先に、僕は幻を見る。土砂降りの雨の中に横転し、燃え盛る車が、時を経ても尚僕の瞳に焼き付いている。どれだけ時間が過ぎようとも、鮮明に。
「もういい」
「嫌なんだ、本当は。 君にこんな事聞かせたくない。 でも、僕があの時……もっとうまくできなかったかなって、思っちゃうんだ」
 幾度となく繰り返された自己嫌悪と自己否定、口を開けば出てくるのはそんな事ばかりで、彼の想いを跳ね除けてしまいそう。それがまた自己嫌悪のループを作る。
「いいんだ、もう。 仕方なかった事だろ?」
 事が終わった後に、彼が―――彼だけじゃなくて、皆がそう言ってくれた。でも、今よりも深く自分を責めていた僕は受け入れられずに、何度も暴れては押さえられていたっけ。
「……きっとそうなんだと思う。 でもね、雨の日になると、目が痛むんだ。 まるであの時の事を忘れるな、お前が悪いって責めたてるように……」
 今もまた、じくじくと鈍い痛みを左目から感じている。それは、あるはずのない痛みのはずなのに。彼と激しく交わろうとするのは、そこからの逃避。刺激が激しいほど、考えないで済むから。
「……大丈夫」
「でも」
「大丈夫だ」
 言いよどむ僕を遮って、僕の目線にまで彼の顔が下りてきた。濡れて張り付いた前髪に瞳は隠れて見えないけれど、僕を安心させるように微笑んでいる。いつの間にか、シャワーの音が止んでいた。
「お前を責める奴はいない、大丈夫だ、俺を見て」
「でもっ」
 優しさに耐え切れず、かぶりを振った僕はあるはずの無い痛みにつられて、自身を否定する言葉を吐き出しかける。自分さえ居なければ、と。
「大丈夫だから、な」
 けれどもそれが口から出ることは無かった。バスタブ越しに彼が、抱きしめてくれていたから。その声は、僕を落ち着かせると言うよりは、懇願のように聞こえた。
「ごめんな、無理言っちゃったな……嫌なこと思い出させて、ごめん」
「そんな……」
 首元にうずめた顔から、くぐもった声が響く。君にそんな悲しそうに話して欲しくないのに、かける声が見つからない。その腕をぎゅっとつかむことしかできなかった。
「僕は……僕は」
 違う、こんな、悲しいのは、違う。本当は彼に笑って居て欲しい、ずっと僕を照らしてくれる君で居て欲しいのに。どうして僕は。
「いいんだ」
「よく……ないよ……」
 視界がにじみ、嗚咽が漏れる。優しいはずの彼の言葉が、今の僕には痛く、深く突き刺さって、その顔を見ることも叶わなかった。
「……そうか」
「……そうだよ……」
 それでもすがりつく腕は離せなくて、彼にかき抱かれたまま、僕はこみ上げる涙をその胸にしみこませた。昔と変わらない、ぬくもりを感じながら。

 ざあざあと雨はますます激しさを増し、静かになった浴室をも満たすように響き渡る。僕の嗚咽をかき消すように降りしきる、雨。どうしてだろう、今の僕にはとても優しく、傷を洗い流してくれている様に思えた。



「なあ、本当にいいのか?」
「いいの。 僕が言い出したことだし」
 数日の後、再びの雨空を前に、僕は外へと踏み出そうとしていた。玄関先に並ぶのは僕と、もちろん彼。心配しきりだが、『雨の日に外に出たい』と言い出した日から、何度同じことを聞かれたことだろうか。
「尻尾のカバーは嫌だけどね」
「ああ、俺もこれは慣れないなあ……」
 苦笑いしつつ、尻尾をすっぽり包む緑色の布を指すと、ようやく彼も笑顔を見せてくれた。彼もまた同じように尻尾を覆っているが、いかんせん毛の量が多いからか、僕と比べるべくもなくパンパンに膨れ上がっている。
「じゃ、行こうか」
「ああ」
 本当は彼に寄り添い、その腕を取って外に出たい。震えが収まるまで、抱いていて欲しい。僕はそれらの想いを振り切って彼の前に立つ。
「……大丈夫」
 体が震え、心は不安に波立つのを感じながら、ドアノブへと手をかける。自分を鼓舞するように、大丈夫だと言い聞かせ、僕は雨の中へと踏み出した。
「うわ……」
 曇りきった空から降り注ぐ水玉が、僕の額を、頬を、手を濡らす。久しく忘れていた、雨の空気と感触に僕は思わず息を飲んでしまった。
「大丈夫か?」
「……」
「おい」
「え、ああ……うん」
 すぐ後ろからの声にも気づかないほど、呆然としていたらしい。彼が出られるようにドアを大きく開くと、手持ちの傘を開く。傘越しに見上げた空は、確かに圧迫感のあるものだったけれど―――
「ねえ」
「ん?」
「雨の空って、こんな軽かったっけ」
「……軽い?」
 横に並んだ彼は、少し不可思議な様子でこちらを見ているけれど、構わない。今はそれよりも、心の中で描いていた雨空の重さと、実際の空の重さとの違いにただ驚くばかりだ。
「行けるか?」
「うん……大丈夫みたい」
 不安も恐れも、不思議と感じない。あれほど嫌がっていた雨の中に、今僕はいると言うのに、拍子抜けするぐらい何もない。
「……行こう」
「どこに行く?」
 ずっと感じていた重さは、雨じゃあなかった。雨に写した、僕の心だった。それが分かった今、天気に反して僕の気分は晴れやかだ。
「そうだね……どこへでも」
「おいおい、なんだよそりゃ」
「ふふっ、どこにでも行ける気分だから」
 心が軽い、と言うのはこんな時を言うのかな。目を瞬かせる彼の腕を取り、僕らは雨の中を駆ける。まるで子供に戻ったようにばしゃばしゃと水を撥ねながら。
「お、おい、あんまりはしゃいだら滑るって、おい!」
「大丈夫だって、それにその時は……」
 急に走り出した僕に驚いているのだろう、幼子に言い聞かせるような声が飛んできて、却って可笑しく感じる。
「君が受け止めてくれる、でしょ?」
 振り向くと同時に、勢い余って突っ込んできた彼の体を、僕が受け止める。こつんと軽い音を立て、傘同士がぶつかり合うと、飛び散ったしぶきが間の僕らを濡らした。
「……ああ」
 受け止められた彼は鼻の頭をかくと、ぶっきらぼうに答えを返してくれた。人通りが少ないとはいえ、こんな道の途中で抱き合うような形になって、恥ずかしそうだ。
「ね……ずっと一緒に歩いてきてくれて、ありがとう」
「何だよ、いきなり」
 すっと体を離して、見上げながら僕は微笑む。
「これからも、よろしくね?」
「……当たり前だろ?」
「うん」
 いっぱい話したい事が有ったけれど、少しの照れも混じってか、うまく言えなかった。けれど、彼は屈託なく笑い返すと、僕の手を握り直してくれた。

 そして僕らはまた雨の中を歩き出す。二人で並んでどこに行こう。答えは焦らなくてもいい。だって今の僕は、どこにでも行ける気がするから。

 雨の日は嫌い。湿気で毛並みが乱れるし、尻尾はぞわぞわするし、洗濯物も乾かない。でも、それでも―――歩き出せた雨の日の事を、僕は忘れない。


おわり







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