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6.『転換』 嵐が来ていた。吹き荒れる風は木々を揺らし、打ち付ける雨は容赦なく土をえぐる、季節外れの冷たい、嵐。だがそんな荒れ狂う天候の中、何も感じていないかのようにメトは林の中に居た。何も見えない闇に包まれ、虚ろな半開きの瞳が何も映すことなく木にもたれているその姿はまるで死んでいるかのようだ。 (何故こんなことに) 何度となく自分に問いかけた疑問が再び頭に湧き出す。その答えはとっくに分かっているが、認めたくはなかった。 「レコ……」 激しい雨にかき消されたその声は自分自身の耳にすら届くのか怪しい。 「……そうだ、待ってるんだっけ……」 ふと頭に浮かぶ、彼と交わした約束。もう遠い昔の事のように思えるそれが、ほんの数時間前の出来事だと理解すると彼はゆっくりと立ち上がった。 しかし、長い時間風雨にさらされていた体はすでに正常ではなく、立っているだけでも目の前がぐにゃりと歪み、どこに自分が居るのかさえ分からない。ともかく歩こうと姿勢を変えたその時、あっけなくその体は地面に倒れた。 「!?」 平衡感覚を失った彼が地面に倒れていると認識できたのは、辛うじて生きていた嗅覚が顔面に付着した泥の匂いを感知したからである。 「痛っ!」 同時に、犬人達によって付けられた傷がうずき始めた。考えることができなかった先ほどまでは痛みをあまり感じていなかったが、今の『それ』は、自分が危機的状況に陥っていることを容易に理解させてくれる。 「……やばい……」 動けない、傷は激しく痛む、目は暗くて見えない。おおよそメトの考えうる危険な状況の中では最悪に近い。 冷たい雨に打たれているのに冷や汗が出ているのが分かる。頭を必死に左右に振るも何も見えず、逆に動かすたびに頭が激しく揺さぶられているかのような感覚が襲ってきた。ならば、と思って手を動かしても自分が何を掴んでいるのかさえ分からないほどに指先の感覚は鈍い。 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい シンプルな3文字が頭の中を支配し、胸が無意識のうちにドクドクと鼓動を早める。冷静に考えることの出来ないこの状況で、自分が死ぬのではと言う考えに至るのは余りにも自然で、早かった。 「……そんな、まさか……」 自分が出した結論を否定しようとして、先ほど自分の手の感覚が薄れていたことを思い出した。今やその手は痺れたかのように完全に感覚を失くしており、動かそうと意識してもまるで何かに押さえつけられているかのように動けない。正に絶望的である。 (し、死にたくな……) 最悪の現実が突きつけられそうになったその時、林を照らし出す光が目に入った。 「……?」 しばらくそれは何かを探すように右往左往していたが、やがてこちらに光を向けた。それは弱弱しい光だったが、どうやらメトの姿に気がついたらしく、バシャバシャと水をはねる音がどんどん近づいてくる。 (た、たすか……った?) 誰かに見つけてもらえたことに安堵して、気が抜けたその時、ふっつりと彼の意識は途切れ、顔を伏せた。駆け寄ってくる人が誰か知らぬまま。 気がつけば視界は灰色に染まっていた。そこは自分の通う教室、自分の席。それなのに強烈な違和感があった。それは、世界がモノクロであるということだけではない。 ―――メトの机しか、その空間にはないのだ。 「これは、何なんだよ……?」 困惑しながらも辺りを見回すと、教室の隅にいる人影に気がついた。それは見覚えのある姿、灰色であるということ以外は何も変わらない……クィードだった。 「……クィード」 「裏切り者」 隅にたたずむ彼の口からぼそりと漏れた言葉が、メトに突き刺さり、背中の毛を逆立たせる。悪意に満ちた言葉と表情が、氷のように冷たく、鋭い。 「違う、俺は……!」 「何が違う?」 「猫人と友達なんて、それだけで悪いことなのは、分かってただろ?」 彼の否定を許すことなく、背後からもう一つの声が響いた。それは、ニルバの声だったのだが、メトはそれに気づくことなく激しく首を振る。 「違う、違う、違う違う違うっ!」 「違わない」 「お前は、裏切った」 「止めろ……」 搾り出すような弱弱しい声を無視するかのように、無慈悲な声は次々と増えていく。それは見知った仲間の顔、裏切ってしまった仲間の顔。 「止めろ、止めろ! やめてくれぇええっ!!」 耐え切れずに頭を抱えて絶叫した瞬間、灰色の世界にひびが入り、砕けた。同時に、取り囲んでいた彼らも消えていく。しかし、頭の中には『裏切り者』の言葉がいつまでも響き渡り、逃げることもできずにメトを苛む。 「俺は……裏切りたくなんか、なかったのに」 唯一の色さえ失い、瞬く間に闇に飲まれていく無色の世界の中で、失意の中でつむがれたか細いつぶやきは誰にも届かないまま消えていく。 その時、 「皆と仲良くしたかったんだよね、本当は」 「……」 まるで盲目のように視界が閉ざされた空間に、どこからか聞き覚えのある声が響いた。 「でも、同じ犬人たちでも二つに分かれている。 猫人が嫌いか、そうでないかというだけで」 「……分かってる」 その声はいつものように優しさを感じさせるものではなく、淡々と事実を語る。じわじわとメトを攻め立てるかのように。 「種族が同じでも仲が悪いのに、猫人と仲良くすることなんて難しいよね……でも」 「分かってるよ……!」 ドギークラウンに住むものであるならば、誰もが理解している『事実』。それを踏み越えようとして、自分は失敗した。分かっているからこそ、改めて突きつけられたそれに声が荒くなる。 「猫人を嫌いな人達のグループに入っていたのに、どこで間違えたのかメト君は僕と友達になってしまった」 「……レコ」 呼び声に応えてか、何も見えない闇の中に彼の姿だけが浮かび上がった。目の前にその姿は見えているのに、どこか距離が離れているように感じる。 「俺はお前と友達になれたことを間違いだとは思ってない……思いたく、ない」 「でも、そのせいで君はそれまでの友達を裏切ったんだよ? それは君にとって許していい事なの?」 レコの表情はいつものような柔らかい、優しい笑顔ではない。無表情に、無感動に、淡々と『事実』をメトに話しかけてくる。 「……分からない。 俺は裏切りたくなかったんだ…でも、でも……裏切ることになっちまった……」 「猫人と友達になったから」 「でも、おかしいじゃないか! どうして他の種族と仲良くすることで、それまでの友達に裏切り者呼ばわりされなきゃならないんだ!? 仲良くすることの何が悪いんだ!? 間違ってるのは……間違ってるのは俺じゃない!」 仲間たちに言えなかった言葉が堰を切ったかのように溢れてくる。それは、レコと友達になってからずっと感じ続けていたことだった。 「うん、メトは悪くないよ」 ゆっくりと首を縦に振って、彼は答えた。困ったようなそれでいて優しい微笑みをこちらに向けて。 「レコ……」 無表情から一転した彼の顔と言葉が、張り詰めていたメトの心を緩ませる。それに何より、笑顔を見せてくれたことが嬉しく、思わず涙がこぼれそうになったがそこは何とか我慢した。 「お前はいつも……優しいな」 「友達、だから」 少し照れくさそうに頬をかく仕草がいつものレコらしい。その様子に、未だに沈んだ気分でいるメトも自然と微笑んでいた。 「友達、お前だけになっちまったな……」 「……そう、だね」 自嘲的な言葉が、口をついて出る。悲しそうに眉をひそめるレコは自分に責任を感じているのか、下を向いてしまった。 「お前は……俺の友達で、居てくれるよな?」 「え?」 意外と言った表情で顔を上げ、彼は聞き返す。責めるつもりはメトには全くなかったのだが、そう受け取ってしまったようだ。 「……ダメかな?」 すがるように目の前の猫人を見つめ、答えを待つ。 まるで告白でもしているかのように、ドキドキする―――メトに実際にそんな経験は無いのだが、そう感じる。 「僕が友達でいいなら……いいよ」 少しの間、レコはきょとんとしていたが、体を硬くしている彼に気づくとすぐに微笑んで答えた。 「……はあぁあ……」 直後、大きなため息を吐いて胸を撫で下ろすメト。わずかな間でしかなかったというのに、緊張に胸は弾み、体中がじっとりと汗ばむような感覚に覆われていた。 「あ、ありがと……な」 「ん……僕もありがと」 嬉しさに涙ぐむ彼と、再び頬をかいて微笑むレコ。この笑顔を気兼ねなく見られるのならば、それでもいいかも知れない―――そう思ったときだった。 「でも」 「え?」 トーンを落とした彼の声に、ぞわりとした何かが背筋に走る。 「猫人と、友達で居られるの? 君が」 ぽたり 笑顔が消え、うつむいたレコの指先から落ちた血の雫。たった一滴のそれが、響くはずの無い音がはっきりとその耳には聞こえた。雫は暗闇の世界に波紋を与え、メトの心を波立たせる。まるで恐怖のように。 「レ……レコ……!? だ、大丈夫か!?」 ぽたりぽたりと流れ出る血は、やがてレコの服にも染み出した。何も起こっていないはずの目の前に、塗り広げられていく赤、それは正に異様としか形容できない。 「ねぇ、答えて……君は僕と本当に友達で居られると思う?」 「何馬鹿なこと言ってんだよ! そんなの、当然だろ!?」 血にまみれながらも冷めた声でこちらに語りかけてくる彼に、動揺を抑えることもなく大声で叫ぶメト。しかし、呼びかけられた当の本人は傷など意に介する様子はなく、そのそばに駆け寄ろうと思っても、駆け寄り方が分からない。足を前に進めるだけのはずなのに。 「猫人を嫌いだった君が、僕を傷つけないと言いきれるの?」 「そ、それは……分からないけど……でも! 俺には傷つけるつもりなんてない!」 暗闇の世界で足を動かし近づこうともがきながら、冷めた声に反論する。正直に分からないと答えるところがメトらしい、と普通のレコなら思うだろうが、今は違った。 「『つもり』……裏切る『つもり』も無かったのに……ね」 「うぅ……!」 冷笑と共に浴びせられた皮肉は今までの非難よりもさらに鋭く心をえぐる。突然の彼の変容に最早メトはついて行けず、何を言葉にしていいのかすら分からない。 「じゃあ、あの子は?」 「え?」 急な話題の転換に何を言っているのか分からず、ぴたりと動きが止まる。だが、彼の言葉は、心の奥底の何かを、確かに揺り動かした。 「忘れちゃったの? 君が『あんな事』をしたせいで……」 「え……あ……!」 重なる、声。目の前にいるのはレコのはずなのに、その声に他の誰かの声が入り混じっていた。 この、声は――― 「うぅっ!?」 一瞬、レコと記憶の欠片の中の姿が重なる。その途端起きた、脳の激しい痛み。それは、思い出すなと心に呼びかける、本能の警鐘。 「折角、慕ってくれていたのに……」 ずきん 「う、あ……あああ……!」 頭が痛むたびに、忘れていた、いや忘れようとしていた記憶が蘇ってくる。そのビジョンが脳内を駆けるのと同じくして、今日何度思ったか知れない一つの言葉が脳内に響き渡った。 『そんなつもりはなかったのに』 「……思い出した?」 レコの声に応えるかのように、生ぬるい風が世界に吹き込んだかと思うと、カッターシャツが風に煽られ、ばたばたとめくれ上がった。それまで見えていなかった傷口をあらわにして。 「それでもまだ、君は僕と友達でいたい?」 頬に走る赤い線、はためく服の肩口から覗く、赤い亀裂。見覚えのある色、そして位置。全ては蘇った記憶に重なり――― 「うわぁああああぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁあ!」 悲鳴に近い絶叫と共に、世界は割れた。 ソンナツモリハ ナカッタ ノニ 二日後の昼下がり―――学校、メトが通う教室。彼の姿があるはずの机には、誰も座っていない。 当たり前のことなのに、ついついそこに目が行ってしまう。レコは小さくため息をつくと、頬杖をついて窓の外に目をやった。 「その時、彼は椅子を蹴って立ち上がるとおもむろに―――」 壇上では老齢の犬人の教師が単調な声で教科書を読み上げている。昼食を間に挟んでこの授業は、声が催眠術のように聞こえると不評だが。 一方のレコはそんな声など耳にろくすっぽ入ってもいず、降り止まない雨を見ながら二日前の事を思い出していた。 耳をつんざくような雷鳴が響く廊下に現れた人影、ライル。 「ライル、君……?」 「……お前がメトの『友達』か」 びくっと体が跳ねるのが自分でも分かる。何故知られているのか―――と疑問が浮かんだが相手はそんな事を気にしてはいないようだった。その反応を見るや否や、突然頭を下げたのだから。 「え、え……?」 「頼む、助けて欲しい」 「ど、どういうことなの? まずは説明してもらわないと……」 何をしてくるかと思えばいきなり頭を下げられて、さっぱり状況がつかめない。とりあえず最初から説明してもらおうと思ったが、そんな暇も与えずライルは腕を引っ張ってきた。 「ちょ、ちょっと待ってって! 何なの!?」 「悪いけど急ぐんだ、行きながら話すからまずは来てくれ」 「お、落ち着いてよ! それに僕はメトと約束が……」 「! やっぱりか……」 そこでようやくぴたりと足を止め振り返るライル。重さを含んだ声にレコは思わず彼との約束を口走った事を後悔した。が、ライルはそこを気にしているわけではないようだ。 「メトはここには来てないんだな?」 「う、うん……ずっと待ってたんだけど……」 鬼気迫る彼の形相だが、こちらに敵意を向けているわけではない事を悟ると、素直にうなずく。どうやら彼の必死さが向かう先はまた別だと気づくと、ふとあることに思い当たった。 「もしかして、メトに何か……?」 「…………」 それを口に出した途端、ライルは苦虫を噛み潰したような渋い表情を見せると、うつむいてしまった。しかし言葉に出さずとも、彼の反応を見れば十分過ぎる程である。 「……少し待ってて、荷物とって来る」 「分かった、昇降口に居る」 今すぐにでも駆け出したい衝動を抑えて、レコは身を翻した。同じように、ライルもまた歩き出す。 (メト……大丈夫かな……) 何が起こったかまでは聞いていない、しかし、彼の身に危険が迫っていることは直感的に理解した。嫌な予感に胸は高まり、自然足は速くなる。 コンマ三秒で図書室に駆け込み、机に置いてあった自分の手提げカバンを引っ掴むと、消しようが無い不安に突き動かされ、飛び出るように走り出した。 『図書室最後の利用者はちゃんと電気を消しましょう』と言う張り紙など目に入るはずも無く、彼は暗闇を駆けていく。稲光が、ざわつく心を更に波立てるように、轟音を再び轟かせた―――。 昇降口の電気は時間的には既に消えているはずである。が、この雨による暗闇を見越してか、それともライルが点けなおしたのか、廊下が暗い中明るく照らし出されていた。降りつける雨が出入り口にも流れ込んでいるのか、時折床に雷光が反射して見える。 「ごめん、お待たせ」 「ああ、行くぞ」 彼は既に靴を履き替えて待っていた。その手には見覚えのあるリュックサックがぶら下がっている。 「それは……」 「……メトのだ。 残ってたからまだ帰ってない」 緑の下地に黒の縁取りのそれは、いつも彼が背負っているものに間違いない。どうしてここに?と疑問を口に出す前に、ライルが口を開いた。 「今確認したが上履きも残っていた……考えたくはないが、やはり外に居る」 「え!? こ、こんなひどい雨の中に!?」 メトの靴箱を覗いてみれば、確かに上履きだけが残っている。彼のリュックがあったことから帰る前に外に出て何かをしたのであろう事までは理解できたが――― 「なんで雨の中に……?」 「それは……」 「いや、ごめん。 早くメトを探しに行かなくちゃ」 疑問に対して先ほどのように口ごもるライルに、言えない事情を察したレコは、言葉をさえぎって未だに雨音が響き続ける外を見やった。 「……荷物はここに置いて行った方がよさそうだね」 「ああ」 メト助けた後、もう一度ここに戻って体勢を立て直すつもりなのはあちらも同じのようだ。この雨の中二人とも傘を持って居ないのに彼の家まで運ぶのは無理がある。 「ほら」 「わ……ライト?」 目が合った途端に、彼はどこから調達してきたのか、小さな懐中電灯を投げてよこした。スライド式のスイッチを入れると、光が入り口付近の水溜りを照らし出す。 「急ぐぞ、俺について来い」 「うん」 少しの間を置いて短く告げると、返事を待たずにライルは雨の中に駆け出した。別段それに文句を言うことも無く、その後をレコは追う。 降りしきる雨の中、外に飛び出た二人はまず予想以上の雨の冷たさに驚くことになった。 「つめたっ!」 「チッ……」 足が地面を叩くたびに、跳ねる泥水が体にかかり、思わず叫びを上げる。季節的には夏だと言うのにこの肌を刺すかのようなこの冷たさ。この雨に未だに晒されているメトを思うと、焦りが募らざるを得ない。 (神様、どうかメトが無事でありますように……) 「おい! 何してる! こっちだ!」 空を見上げて祈っていたら、どうやら道を外れていたらしく、ライルの怒声が飛んできた。慌てて彼の行く先に足を向け、置いていかれないように必死に走る。折からの雨で視界は悪かったが、光を放つ懐中電灯が目印となって彼を見失うことはないのが幸いだった。 「どこへ行けばいいの!?」 「裏の林だ! 多分……!」 走りながら雨音にかき消されないように声を張り上げるレコに、同じように叫んで返すライル。返ってきた答えに不安を感じながらも、そのまま二人は校舎の角を曲がり、多目的コートの横を通り過ぎると、やがて道具倉庫脇の雑木林へと入った。元々足の速いライルについていくだけでも辛いのに、何も文句を言うことなくレコはただ彼の後を追う。 息が上がっても、服がずぶ濡れで靴がぐしょぐしょになっても、枝にこすられ傷ついても今メトがどうしているかを想えば、どうでもよかった。 「あ、ライル君……?」 「この先だ……」 気がつけば、先に行っていたはずのライルがいつの間にか足を止めて、その前方に懐中電灯を向けている。しかし、生い茂る木々の暗闇の中で、光は余りにも弱弱しく、先まで届いているかどうかは疑わしい。だが、何故か彼はその先へと歩みを進めようとしなかった。 「……行かないの?」 遅れて追いついたレコに促されても、彼はためらっているのか棒立ちになったままである。その態度を不審に感じたが、ともあれメトを探すのが最優先であることには変わりない。とりあえずレコはライルの先に進み出て、前方の開けた場所に懐中電灯を向けた。 「…………」 雨と林の暗闇にさえぎられては猫人によく見られる視力の良さも役に立つとは言いがたい。それでも諦めることなく、目を皿のように細めてあたりを照らしていると、それが目に入ってきた。打ち捨てられた自転車の様に動かない、それを。 「―――――メト」 木の前に、うつぶせに倒れているその姿を見つけたとき、無意識にその言葉が漏れた。それは、理解したくない現実。直視したくない惨状。目の前のボロボロの彼が、いつも知っている元気で活発な彼の姿と、まるで重ならない。だが、何故ここに、あんな姿で倒れているのか?それを考える前にその体は動いていた。 「メト!!」 「!」 その叫びに弾かれたかのように、ライルもまたメトに駆け寄ってくる。そこに彼がいることを信じたくなかったのか、何とも複雑な顔になっていた。 「メト! メト!! しっかりしてよメト!!」 すぐさま彼を抱き起こしたレコは、その体をゆすりながら何度も呼びかける。反応は無いのは分かっていたが、それ以外に何もすることが思いつかなかったのだ。 そんな錯乱するレコを尻目に、ライルはすぐさまメトの腕を取り、胸に耳を押し当てた。 「……大丈夫だ、生きてる。 ここじゃまずい、運ぶぞ」 「え、あ……う、うん」 低く冷静な声が、目の前の惨状に騒ぐ心を、まるでマッチの火にバケツで水を浴びせるかのように鎮めさせる。『生きている』と言う単語にここまで安心したのは初めてだった。 「そっちの肩を持て……行くぞ」 「うん……っく……」 促されるままにメトの右肩を支え、ライルの合図と共に持ち上げる。意識がないままの彼の体は、二人の間でがっくりと頭を垂らした。雨に晒されているからか、その体の重みは、二人の肩に食い込むようにのしかかっている。 「…………」 「………………」 自然、二人は歯を食いしばり、一歩一歩ぬかるんだ地面に気をつけながら踏みしめて歩いていく。弱弱しい懐中電灯の光が届くのはわずかな範囲のみ。方向を見失わないようにするには余りにも頼りなく、不安ではあるが、林の入り口からの距離があまり無いのが救いであった。 「わっと……」 「いっつ……!」 枝に足や腕をとられ、何度か転びかけながらも、二人は地面が安定している学校の敷地に戻ってくる。そこからは壁際を伝っていけばいいだけなのである程度楽なのだが、それでも負荷が厳しいのか、バランスが上手く取れずその足つきはたどたどしい。二人の身長はそうでなくてもかなりの差が有るので、無理もないのだが。 「く……」 「ううっ……」 しかしなんとか転ばぬように踏みとどまると、改めてレコは動かないメトの肩を掴みなおす。ふと、隣を見上げると、ライルがこちらを見ているのに気づいた。 「大丈夫か?」 「う……うん」 雨と暗闇で、互いの顔ははっきりとは分からない。彼が呆れた顔をしているのか、不機嫌そうな顔をしているのか見当もつかないが、こちらを心配しての言葉にレコは少し驚いていた。とりあえず首を縦に振って答えると、正面を向く。見れば昇降口の光が見えるほど近づいており、少し安心できた。 「もう……少しだね」 「ああ」 こちらを見ずに短く答えたライルの横顔を見ながら、レコは再び足を前に出す。近づくごとに大きくなる焦りを抑えながら、確実に、しかし出来るだけ早く。 程なく昇降口にたどり着いた彼らは、メトを離して下ろすと、安堵と共に廊下に倒れこんだ。既に二人とも消耗しきっており、マラソンでも終えたかのように荒い息をついている。激しい雨の中二人がかりとは言え雨具もなしに人を運んできたのだ。当然の結果であろう。 「はっ……はーっ…………ふぅ……」 「ぜっ……ぜっ……」 深呼吸するレコと、ばったりと倒れたままのライル。3人ともずぶ濡れで体は冷え切っているが、それをどうにかする方法が無く、またそれを考える余力も今は無かった。 「ねぇ……これから、どうする?」 「……知るか」 雨具も無く、かといって体を拭くものも無く。このままメトを彼の家に運ぶというのは正直なところ荷が勝ちすぎであり、最早自分達に出来ることはもう無いのではないだろうか―――床に転がりながらそう思ったときだった。 「おやおや、これはまた珍しい組み合わせだね」 冷え切った背中を、さらに凍りつかせるかのように走る怖気。反射的に上半身を起こしたレコが声の方向を向くと、いつの間に現れたのか、入り口に背の高い犬人が立っていた。 「ニ、ニルバ!?」 「僕は確か言わなかったっけ? そいつはもう『仲間じゃない』ってさぁ」 傘を傘立てに放り込み、にこやかに、だがしかし高圧的な態度でニルバはこちらに語りかけてくる。突然現れた彼に対して恐怖を感じているのか、身を起こしたライルは目を見開いて体をこわばらせていた。 「それに……猫人と一緒になって何をしてるのかな?」 じろりとこちらに向ける冷えた目線に対し、きっと見返しながら、レコは壁際のメトを背中で隠す。その様子に不快感を隠すことなく眉を寄せると、巨躯の犬人は律儀に上履きに履き替え、こちらに迫ってくる。ゆったりと近づいてくるその余裕が、逆に恐ろしく、全身をぞわりと這い回るかのような寒気に華奢な猫人は震えを隠し切れずにいる。 「…………それよりもお前こそ何故ここに居るんだ」 そんな空気を破るかのように、へたり込むライルから発せられた、当然の質問。 「はははははははは。 馬鹿だなあーライル……質問してるのはこっちだよ?」 「がっ……は……!」 だが、見上げる彼に対して、ニルバは感情のない笑いを見せると座り込んだままの彼に大きな足をめり込ませた。あくまでもにこやかに、そして躊躇の無いその行為が、まるで機械のようで不気味だ。 「な、何を……!」 「何って……見ての通り、制裁だよ。 僕が言ったことに彼は従ってくれなかったんでね」 「ぐ……っく」 レコの抗議の声など意に介さず、ニルバはめり込ませたままの足をぐりぐりとさらに動かす。うめくライルの声に、その冷たい笑みが鋭さを増している気がした。 「ど、どう言う事……?」 「僕はね、彼に裏切った人間に関わるなって念を押したんだよ。 それなのにわざわざそいつを助けて、あまつさえ猫人に手を借―――」 「うっ……げほっ……」 そこまで説明して、ニルバははっと何かに気づいたかのようにその足の動きを止めた。解放されたまらず咳き込むライルを完全に無視し、彼はレコを凝視している。 「そうか……そういうことか。 君がメトの『友達』だったんだね?」 「―――!!」 見開かれた目に、冷徹な光が見えた。薄く浮かべた彼の笑顔が、敵対心に満ちていくのが分かる。 「まさか……」 だが、その表情に対して恐怖を感じるよりも先に、レコはどうしてメトがこんな目に会ったのか、気づいた。 「まさか、メトは……君たちのグループを……抜けたの?」 「……頭が悪いな。 質問に質問で返すなって言ってるだろ」 「っ!」 ピクリと頬を引きつらせて牙を見せると、ニルバはすっとその足を上げる。反射的に目をつぶり、腕で顔を覆うが、予想に反して痛みは襲い掛かって来なかった。代わりに、一瞬遅れて何かが落ちたような鈍い音が響く。 「……?」 「ううう……!」 不思議に思って目を開けば、自分を蹴ろうとしていたその足にライルがしがみつき、頭一つほども違う巨体を押し倒していた。 「な、何……!?」 「そいつに、手出し、するな……」 「ら……ライル君!?」 予想外の出来事に動きが止まり、目の前の猫人に対する悪意も忘れてニルバは必死にしがみつくライルを見つめている。かばわれたレコも彼の行動にあっけに取られ、開いた口がふさがらない。 「ライル……! 自分が何をしているのか分かってるのか?」 「そんなの分かるか……! ただ俺は……そいつを傷つけたくないだけだ!!」 我に返ったニルバの冷静な問いと、自分の心の内を答えとしてぶつけるライル。その返答に彼はあからさまに不快感をあらわにし、大きなため息をつくと動きを止めた。 「お前も猫人がいいのか、自分の種族よりも……」 「ニ、ニルバ……?」 口調が変わった―――いや、それだけではない。言葉の重さが、空気が、今までと一変していることをレコは敏感に感じ取っていた。さっきまでのニルバを氷とするならば、今の彼は――― 「ふざけるなぁっ!!」 炎。 「ライル君!!」 「な、うわあぁっ!」 ニルバの燃え上がる怒りの意志そのままに、凄まじい脚力で跳ね除けられるライル。まるでテレビでも見ているかのように目の前でその体は空中を舞った。 「うぁあっ!!……う……ぐ」 「あははははははははは! はーっはっはっはっはっはははは!」 床に全身を強打したライルを見下ろしながら、哄笑するニルバ。だがその表情は怒りと侮蔑で満ちており、先ほどまでの得体の知れないものに対する恐怖とは違って、純粋に強大な力を前にした恐怖がそこにあった。 「いいザマだなぁライル! そうやってキャルシーなんかをかばうから、さぁっ!」 「ふぐぁあああっ!!」 猫人に対する差別語を憎悪と共に吐き出しながら、倒れ伏す彼の腹部に容赦なく蹴りが入る。余りにも激しい彼の怒りにレコは怯えを隠しきれない、だが。 「お前も結局裏切るんだな……お前も、メトも、ランバートも! なぜ!?」 「ぐぁ! うぐぇっ! げふぁっ!!」 まるで狂ったかのように蹴り続けるニルバの声が、やけに悲痛に聞こえるのだ。それがどうしても引っかかり、気づけばするりと口から言葉が漏れていた。 「……寂しいの?」 「………!」 その一言に、ぴたりと動きを止めてこちらに振り返る彼。その瞳にかすかに動揺の色が見て取れた。 「何を言ってるんだお前……僕が? 寂しい? バカらしい!」 「……何を、やってる……逃げろ……!」 が、ニルバはその一瞬の揺らぎを隠すため歯をむき出しにして、こちらを威圧するように笑いかけてくる。その足元のライルは動けないまま逃げるよう促してくるが、立ち上がったレコは既に意識を目の前の彼に集中しており、彼の言葉は耳を通り抜けていった。 「君は、どうしてそんなに悲しそうなの?」 「っ……!!」 迫力に飲み込まれることなく、静かな声がニルバに投げかけられる。それは、彼の瞳からレコが感じ取った怒りで包まれた心の、中身。 「そんな、わけないだろ……! お前に何が分かるって言うんだ!」 「……確かに僕は君のことは知らない。 だけど……分かるよ」 「な、何だと……?」 否定を口にするまでの間は、短いものである。しかし、そこからニルバの動揺を読み取るのは至極簡単であった。 「君は、どうして改めて学校に戻ってきたのか……しかも、こんな大雨の中を」 奇妙な感覚だった。さっきまで感じていた怯えも恐れも無く、自然に言葉が口をついて出る。どうしてここまで冷静になれるのかレコにも分からないが、とにかくメトを守りたくて、それだけが頭を支配していた。 「そ、そんなの決まってるだろ。 ライルがメトを助けに行ってないか……」 「違う」 「な!?」 静かながら、それでいて黙らせるには十分な重みのある声。傍から見ればどう見ても体格の大きい彼が有利であるというのにも関わらず、今この場の空気の流れはレコのものとなっていた。それも、ほんの少しの言葉で。 「君は、メトが心配で戻ってきたんだよね」 「ばっ……!」 「え、そ、そうなのかっ!?」 ライルを痛めつけていた様子からは、およそかけ離れた想像だったが、そうであるとレコは感じている。そこには感覚的なものと同時に、一つの確信できることがあった。 「ば、そ、そんなバカな事を僕がするわけ、ないだろ! だ、大体だ、証拠はあるのか!?」 動揺を抑えることが出来ないのか、その声は―――いや、一挙一動がうろたえて見える。ここへ来た当初の姿が嘘のように。 「じゃあ、その君が持ってきたやけに膨らんでいるリュックは? 普通、帰って戻ってきたならその『荷物』は必要ないよね?」 「う……ぐぐ……っ」 靴箱の踏み板には、彼が持ってきた膨らんだリュックがあった。そこから窮屈そうに歪み、わずかにはみ出ているのは、タオル地―――。それこそがレコの考えを確信に至らせたもの。 「あ、あれは……?」 どうやらそれが見えていることに、ライルも気づいたらしく、ぎりぎりと歯噛みするニルバとそれを交互に見返している。 「君だって、このままメトを見放したくないんでしょ? だったらここで意地を張っても仕方がないって分かるよね?」 「くっ」 彼は語りかけるレコから目をそらし、壁際にもたれかかるメトへと視線を向けた。未だにその意識は、目覚める気配を見せない。 「……お願い、だからそのタオルを貸して?」 「ニルバ……」 懇願する二つの視線がその背中に刺さる。こちらを向かない彼がどんな表情をしているのかはうかがい知ることは出来ない。少しでも揺れ動いているのだろうか。 「……どうして、僕が君の言うことを聞かなくちゃならないんだい?」 メトの方を向いたまま、動揺が収まったのか、落ち着いた声がニルバから発せられる。目の前の意識のない姿を見て、毒気を抜かれたのか、そこから先ほどまでの怒りなどは感じられない。 「………そうすれば君はメトを助けたことになって、怒られることは無いと思うよ」 「はっ…………ばかばかしい」 レコの話を鼻で笑うと、急にニルバは振り返り、二人に目を合わせることなく歩き始めた。 「ニルバ君……!」 「これ以上、君らに付き合うのはうんざりだ」 素っ気無くそう告げると、彼は自分達の横を通り過ぎ、靴箱へ向かっていく。引き止めようとしても、恐らく振り向くことはないだろう。 「……一つ、教えてあげよう。 このリュックは僕のものじゃあない」 「え?」 「何……?」 一瞬、何を言ったのか分からず、靴を履きなおす彼を見つめる目が瞬きする。 「だから、中身が勝手に使われようと、僕の知ったことじゃない」 「ニルバ君……」 誰にでも分かりやすい、嘘。だが、それが今彼に出来る、精一杯の優しさなのだろう。ライルもそれには気づいているのか、驚きに口が開いたままになっている。 「……お前……」 「君はどうする? 裏切り者を助けて、猫人と手を取るか、それとも僕についてくるか」 「俺は……」 背中越しのニルバの声は淡々としていた。彼が答えることが出来ないと言うことを、まるで知っているかのように。 「ま、いいさ……そのうち、分かる」 「…………」 「……………」 動けないライルを尻目に、肩をすくめる動作をしたかと思うと、振り向くことのないままニルバは昇降口から見えない闇の中へと去っていく。無言でばさっと傘を開いたその背中が、どことなく物悲しくて―――声をかけることは、できなかった。 「……ライル君?」 「ん? あ、ああ……どうした?」 ぼーっとしたまま彼の去っていった方向を見つめていたライルに呼びかけると、彼は少し慌てたかのようにこちらに視線を向ける。どうやら放心していたようだ。 きっと今降っている雨の音も聞こえていなかったに違いない―――そんなことを思いながら、レコは壁の方を指差した。 「メトのこと、なんとかしないと」 「あ、そうだな」 言われてようやく気がついたらしく、改めて壁にもたれかかったままのメトを見やる。先ほどから微動だしない、彼を。 「目、覚まさないな……」 「……うん。 でも今は……」 目を覚まさないのは確かに心配だが、どうやったら意識が戻るのかなど、自分には分からないし、それはライルも同じだろう。それ故にレコは、この状況で出来うる限りの最善を尽くすつもりでいる。 「とりあえず、濡れた体を拭かなきゃ……」 「ああ」 ニルバが残していったリュックが、今は心強い。二人で中身を取り出すと、思ったとおりにリュックにはバスタオルやハンドタオルが詰め込んであった。 「バスタオルが……7枚も。 ハンドタオルが10枚……随分とまぁ……心配? だったのかな」 「あいつ、たまにそう言うところ見せるんだよな……って、ちょっと待て」 メトの上着を脱がしにかかったところで、突然にライルはこちらの肩を掴んできた。 「え? 何?」 「何って……その、いちいち脱がさなくても良いだろ……?」 脱がすついでにレコが振り向くと、彼はあさっての方向を向きながら、鼻の頭をぽりぽりかいている。気恥ずかしいのは分かるが、今はそう悠長なことも言っていられない。 「でも、服の下もびしょびしょだし……それに、ライル君もお風呂入った後で、服を着てから体を拭くわけじゃないでしょ?」 「それはそうだが……」 頭では理解しているようだが、心の方はそうもいかないのだろう。だが、そんな彼に追い討ちをかけるようにレコの言葉が続く。 「どうせライル君も脱ぐし」 「何!?」 言いながら尚その手は止まることなく、バスタオルをメトの上半身に被せると、ズボンの方へと動いた。 「……お前、恥ずかしくないのか?」 「ん……ちょっとね。 でも、そんな事言ってられないじゃない」 平然としたレコの姿に呆れているのか、それとも感心しているのか、ライルはとりあえずズボンを脱がすのを手伝い、メトの上半身を持ち上げる。 「あ、ありがとう。 んしょ……」 濡れたズボンは、表面は泥がこびりつき、内部はぴったりと毛皮に張り付いて脱がしにくい。仕方なく引っ張る手に力を込め、 「えいっ!」 と気合を入れたところ ズボッ 「あ」 「あ」 急に抵抗がなくなったかと思うと引っ張られていたズボンはパンツと一緒に脱げ、意図せずして彼の股間があらわになった。それと同時に、二人のあまりにも間抜けな声。 「……」 「…………」 責めるようなライルの視線が頭に刺さっているが、気を取り直してレコはその下半身にタオルを当て、くるくるとお風呂上りのそれのように器用に巻きつける。 「これで、よし。 下ろしていいよ」 「ああ」 「あ、あはは……」 何事も無かったかのように見上げると、目を細めて呆れたように見つめている彼と目が合った。とりあえず愛想笑いでごまかしておくが、彼にリアクションは、無い。 「と、とりあえず僕はメトの体を拭くから、ライル君は自分の体拭いてきたら?」 「…………そうだな」 気まずい空気に耐え切れず、わざと明るい声で提案するレコ。少しの間、声がかかった本人は考える素振りをしたが、軽くうなずくとタオルをつかんで背中を向けた。 「こっち……向くなよ?」 「はいはい」 ためらいがちな声が微笑ましく、メトの体を拭きながら軽く返す。男同士だしそこまで恥ずかしがらなくてもいいのではないか、とも思うが。 やがて、それぞれの体が拭き終わると、皆タオルを腰に巻きつけ、肩に羽織るような格好で壁に背をもたれることになった。一応体が冷えることはなんとか防げたようだが、相変わらず雨音は激しく、メトは意識を取り戻さず、状況はいいものとは言いがたい。それをライルも分かっているのか、落ち着かない様子で動かない彼と昇降口を交互に見比べている。 「……ねぇ」 「ん?」 ずっと黙っているのもいたたまれず、メトを挟んで座っているライルに、レコは話しかけた。 「何があったのか、話して、くれる?」 「……」 何があったのか、とはもちろんメトの身にあったことである。気を紛らわすような明るい話題とは言い難かったが、知っておきたいのだ。 「楽しい話題じゃない」 「……でも、知りたいんだ」 どうやら気を紛らわせたかったのはライルの方も同じようで、眉根を寄せてそっぽを向いてしまう。思い出したくないのだろうか―――しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。何故なら自分も、当事者の一人であるはずだから。 「……どうしてもか?」 「どうしても」 向こうを向いたまま、ライルはため息をつき、黙ってしまった。それでも、レコはじっと彼の顔を見据えて離さない。 どれくらいの間があったのかは分からない。やがて、こちらに顔を向けることなく、彼は誰にともなく語り始めた。 ニルバのグループがメトに先日の事を問いただすために呼び出したこと。彼がその場でレコと友達であることを言いきったこと。それによって犬人達によって『制裁』されたこと。自分は何も出来ず、ただ見ていることしか出来なかったこと。 ただ淡々と、事実をライルは語った。一切の色眼鏡を通さず、一言もレコを責めもせず、逆に自らを責めるかのように。 そして――― 「あいつは、お前を裏切れないって言っていた」 「えっ?」 ひとしきり語ると、彼は最後にそう付け加えた。それは殆ど予想通りの話の中で、全く予想外な言葉。その言葉が一瞬飲み込めず、聞き返すように声が出る。 「裏切れないって……」 「メトはお前を選んだんだ、俺たち犬人よりも、猫人であるお前を」 呆然とした彼の様子を見かねてか、分かりやすい、直接的な表現でライルは言い直した。そのニルバに近い言い方が、早く理解しろと言っているようで、彼の苛立ちが少しだけ伝わってくる。 「じゃ、じゃあ……メトは、僕の、ためにグループを抜けたってこと?」 「……そうだ」 反射的に口から言葉が出てきた。その一言一句を口に出しながら、必死に脳は理解しようと反芻する。 ―――メトが僕のためにグループを抜けた。 それだけが、事実。それが、彼の選択。ようやくその事を理解した時、視界は既にぼやけていた。 「どうして、メトは……!? なんで僕なんかのために……!!」 「俺が知るか。 後は本人に聞け」 今まで張り詰めていたものが切れたかのように、涙はぼろぼろと溢れ、思わず顔を片手で覆う。突き放すかのようなライルの言動だが、それでも頭を軽く叩いてくれて、その優しさが、一層切ない。 ―――メトが裏切ったのは、僕のせいなのに。 「……本当は、僕っく、信じて……なかった」 「え?」 手で涙を拭い、嗚咽交じりの言葉に、意外そうな声を上げるライル。涙でぼやける彼の顔はよく見えないが、驚いているのだろう。 「……メトは昨日グループを抜けようかな、って言ってくれたんだ。 でも……僕は信じてあげることが出来なかった。 メトは、きっと今までの友達を選ぶだろうって……ずっと考えてた……それなのに……」 常識的に考えれば、そう考えてしまうのは無理もない話である。たった1ヶ月ぐらいの付き合いしかない自分より、長い付き合いでなじみの深い、たくさんの友達を選んでも、文句は言えない―――レコはそう考え、半ば諦めていた。 「結局、メトはお前を選んだ……可哀想なのは、お前に大切に思われてないって事だな」 「…………」 吐き捨てるような痛烈な皮肉が心に刺さる。彼からしてみれば、メトを奪った形になる自分が、彼を信じていなかったというのは許せないのだろう。何も言い返すことが出来ず、レコはただ目をそらして自分の体を抱くように腕に力を込めた。 と、そこでハっと気がついたのか、ライルはバツの悪そうな顔になった。 「……悪い……そんなつもりじゃ……」 「ううん、しょうがないよそう思っても……」 そっぽを向きながら謝ってきたが、二人の間に流れる空気は痛々しく、ただ悲しそうに首を振ってレコは答える。 「でも……僕は嬉しかったのは本当なんだ。 手を握ってくれたり、頭を撫でてくれたり、怪我を心配してくれたり―――本当に、嬉しかった」 嘘はついていない。一緒に過ごした時間はそれこそ数えるほどしかないけれど、一緒に居られるだけで、楽しかった。寂しくなかった。 「…………」 「…………」 再び、沈黙。ざあざあとやまない雨の音が耳に障る。まるで悲しみに揺れる心をかき乱すように。 「出会わなければ、よかったのかな……」 「……お前さえ居なければ、メトは変わらず俺たちの所に居た」 もし自分と出会わなかったら―――その仮定に、ライルは客観的な事実を述べてきた。良し悪しについては、触れないまま。 「多分、猫人と仲の悪い今に悩みながら」 「うん……そうだろうね、多分……」 「だから、分からない。 良いか悪いかなんて……俺には分からない」 ゆっくりと首を振り、彼は隣に眠る友人を見る。その、どこか諦めを感じさせる表情に、レコは胸が締め付けられるような切なさを覚えた。 「それでも、お前に出会って感じたことや、考えたこと、間違っていないと思ったから……お前を信じたから、俺たちから離れたんだろ」 「……うん」 「お前も信じてやれよ。 メトには……お前が必要だろうから」 本当に自分は、メトに必要なのだろうか? それについては分からないが、ライルの言うことは逐一心に響いてくる。 「僕は……信じたい。 ううん、信じる。 必要かどうかは問題じゃない」 彼と友達で居たいから。彼のそばに居たいと思うから。とは、少し恥ずかしくて言えないのだが、ライルなら分かってくれそうな気がした。 「そうだな……」 こっちを向いたライルと目が合うと、彼は寂しそうな目をしながらも笑顔を見せてくれた。彼だって辛いだろうに、何故こんなにも自分に対し言ってくれるのだろう。 「……ありがとう」 「別に、お前のために言ったんじゃないけどな」 笑顔で返すと、彼は慌てたようにそっぽを向いた。少し大人びたように見える彼だけど、そういう態度は年相応と言うか、微笑ましい。 「うん、分かってる。 でもありがとう」 改めて礼を言うと、ライルは照れているのか、ぽりぽりと頭を掻いた。どうも恥ずかしいと体のどこかを掻くくせがあるようだ。 ぱしゃっ 「……!」 雨の音とは別の、水を撥ねる音。軽い感じのするそれは、やがて連続してこちらへと近づいてくる。弾かれたように顔を昇降口へと向けると、闇の中から傘を持った誰かが浮かび上がってきた。見慣れない、いや見たことのない犬人だ。 「おば、さん……?」 「え?」 ライルのつぶやきに、思わず聞き返そうとするレコ。それはどういう意味なのか、と考える間もなく、その人はこちらの存在に気づいたようだ。 「メト?」 ニルバほどの背丈の女性は、メトの姿を見るなり傘をたたむのも忘れて急ぎ足でこちらに向かってくる。ほぼ裸であるこちらのことなど、まるで意に介さないように―――ライルは慌てて股間のタオルを押さえていたが。 「メト……」 女性は眠ったままのメトの前で屈み、頬にそっと手を触れたかと思うとこちらとライルを交互に見上げた。 「……君たち、この子に何があったのか……分かる?」 その瞳に映る、困惑と焦燥がレコに直感を働かせ、悟らせる。即ち、 (ああ、この人がメトのお母さんなのか……) と。 それからが大変だった。メトは彼の母親が乗ってきた車で病院に運ばれ、自分達は質問攻め。ライルのことを考え、知らぬ存ぜぬを突き通して、二人は偶然に見つけた彼を助けたということになった。その後メトの母親(後にアリアさんと聞いた)に家まで送ってもらって、それ以降はよく覚えていない。ただ、めまぐるしかったこと、沢山考えた事を、おぼろげに思い出せるだけである。 次の日から、メトは風邪を引いたと言う名目で休みになっており、ニルバも、ライルも、それぞれの日常に何事もなかったかのように……戻っていった。こちらに何かしてくるのではないかとは思ったが、一瞬ニルバと目が合ったぐらいしか、無い。 何も変わらない、友達だったメトが居なくなっても、何も変わらずに進む彼らの日常。そこにはつい数日前までは、彼が居て、笑っていたはずなのに―――。 「では、次の部分を、テラニス君……テラニス君?」 「…………あっ! は、はい! えーと……すいません、聞いてませんでした……」 どうやら自分の世界に没頭しすぎたらしく、気がつけば先生に当てられていた。普通の人ならここでクスクスと笑い声が聞こえてくるところだが、それが自分の時に限って無い。少し、寂しい―――こう考えるのは、メトが居ないからだろうか。 「……仕方ない、次を……」 ゴーン、ゴーン、ゴーン…… 小さくため息をつき、先生が順番を回そうと言いかけた時、丁度チャイムが鳴った。午前中の音とはまた違った、重い響き。雨の降る中、その音はまるで重苦しくのしかかるようだ。 「今日はここまで……」 抑揚のない声と共に、途端に騒がしくなる教室。思い思いに雑談を始める彼らの中に、レコの入る場所はどこにも、無い。いつもであればこの退屈な時間が早く過ぎ去り、本を読みに行きたいところであるが―――今日はそんな気分にはなれなかった。 「レコ君」 帰りの集まりを終え、珍しくまっすぐ昇降口へと向かうレコを、誰かが呼び止める。足早に帰っていく人たちの中、その聞き覚えの無い声に引かれて振り返ってみると、見覚えのある猫人が階段の上からこちらに手を振っていた。 「え……僕?」 白銀の毛並の彼は、自分を指差すレコにうんうんとうなずいて返す。確か、図書室でよく見かける人だ。とりあえず通路の邪魔にならないよう、階段まで行くと、彼は少しぎこちない笑みを浮かべた。 「今日は図書室に寄らないのかい?」 「う、うん……えっと……」 「ああ……そっか、話したこと無いもんね。 僕の名前はウェイン……ウェイン・プロヴァリー。 よろしく」 名前を言えないレコに、改めて自己紹介をしてくれるウェイン。その表情が少しだけ柔らかくなり、それにつられたかのように、こちらの緊張もゆるむ。 「よろしく……」 差し出された手を軽く握り返すと、彼は破顔して握られた手を力強く上下させた。なんだか恥ずかしい。 「んーっと……ちょっと時間、いい?」 「うん、いいよ」 少し考えた後、落ち着きない様子でこちらを誘ってくるウェイン。特に宿題以外帰ってもすることは無いし、即答した。何を話すのかは知らないが、今のもやもやした状態を少しでも忘れていたい。 「そっか、それじゃあ図書室に行こう……へへ」 「うん」 誘いに乗ってくれたことが嬉しいのか、先ほどから彼の頬はゆるんだままで、尻尾も落ち着き無く上下している。そんなに自分と話したかったのかな、とも考えたが自嘲気味にその考えを打ち消す。 「そういえば、メトは?」 「え?」 先を行くウェインから、予想していなかった名前が飛び出してきた。何のことだかとっさには理解できず、思わず聞き返してしまう。 「最近、よく一緒に居るじゃない。 今日はどうしたのかなーって」 「う、うん……風邪で、休んでるんだ」 「そっか……」 そこまで言うと、振り向きながらウェインは少しほっとしたような顔になった。メトと会うことを恐れているのだろうか。 「でも、君と彼が一緒に居るとこ初めて見たときはびっくりしたよ」 「そうなの?」 「だって、猫人のこと嫌いって言ってたし……前、睨まれたことも……」 「あ、あはは……」 図書室のドアを開けながら、その時のことを思い出したのか、同じぐらいの背丈の彼は、少し身震いした。そんな様子に、メトの友達としてレコは苦笑せざるをえない。 「それなのにこの前はさ、落とした本拾ってくれたんだよ?」 「へぇ……まぁ、メトって優しいから……」 「そうなのかなぁ……」 震えたかと思ったら今度は驚いた顔をして、なんだか楽しい人だ。ともあれ、室内に座る場所を見つけると、隣り合ってかけることにした。放課後直後のこの時間帯は、利用者でごった返し、しばらくの間静けさとは無縁の部屋になる。誰も壁に張られた『静かに利用しましょう』なんて壁紙は見てないのだろう。 「それにしても急に変わったよね……なんでだろ?」 「さぁ……そこまでは分かんないけど。 元々猫人嫌いだったわけじゃないのかも」 言われて見れば、それまで猫人に対する嫌悪で凝り固まっていた犬人が1ヶ月2ヶ月で急激に変わるとは思えない。当てずっぽうで言った言葉だったが、案外的を射ているのかもしれない。 「やっぱり、レコ君が友達になったからなのかな?」 「僕と友達になったから……? あははは、ちょっと恥ずかしいや」 「でも、それ以外考えられないよ」 自分のおかげでメトが変わったのだろうか。ウェインの言葉はどこかこそばゆく、嬉しいような恥ずかしいような、複雑である。しかし、そうだったらいいな、とも心の中でレコは思っていた。 「ところで、僕と彼が友達なのって……皆知ってるのかな?」 「結構有名だよ? あのメトがレコ君を病院まで送っていったって」 「そ、そうなんだ……」 人の口に戸は立てられない……そもそも立ててもいないが。その噂を聞いたニルバ達が、メトを問い詰めたと言う図式なのだろう。助けたことが、結果として自分の首を絞めるとは、皮肉だ。理不尽だ。 「ま、僕は君らが図書室で何回か待ち合わせしてるのを見て、友達だなと思ったんだけど」 「み、見てたの?」 「うん、よく頭撫でてもらってたよね」 「…………」 そこまで見られていたとは思いもせず、レコは絶句してしまった。自分に興味のある人間など誰も居ないと思って人の目を気にして居なかったが、ここまではっきり言われると、例えようもなく恥ずかしい。顔に熱が集まっているのがはっきりと分かる。 「意外と優しいんだね、メトって。 病院に送って行ったり……」 「う、うん。 いつもそうだよ」 意外と、と言われる辺り、メトがどれだけ快く思われていなかったのか、察しがつく。 「僕も仲良くできるかなー……なんて」 「きっと……出来ると思うよ」 ウェインは冗談のつもりらしいが、レコは本気で仲良くできると思う。もう、メトはこの前までとは違うのだから。 「……信じてるんだね、メトのこと」 「僕は、それしかできないから」 自分の本を手元に広げつつ、穏やかな笑顔をこちらに見せるウェイン。つられて、自嘲的な言葉とともに自分も笑顔で返していた。 「でも、そういうのって良いよね。 信じられる友達が居るって」 「うん。 ウェイン君にも、居るの?」 「まぁ、一応はね……」 ふと気になって聞いてみると、彼は少し難しそうな顔をして苦笑いを見せる。 「いつも強引で、勝手で、怒りっぽいけど……でも、助けてくれたから」 「へぇ……」 「だから、僕は付いて行こうと思ったんだ。 ……そばに居て少しでも助けになりたいから」 最後の方は恥ずかしいのかか細い声で聞き取りにくかった。だが、彼のその人に対する信頼は確かなものだと、そう思える。本で顔を隠すくらい、恥ずかしいのだろうから。 と、微笑ましく思ったその時、けたたましくドアを開けて誰かが入ってきた。 「ウェイン! ここか!?」 「あ……」 突然入ってきた体格のいい猫人の怒鳴り声が図書室中に響く。一瞬で静まり返る室内。その空気と視線を一身に浴びながら、まるで動じないようにその少年はきょろきょろと見回している。 「ウェイン君……もしかして、あれ……」 「うん……」 本で顔を隠したまま、ウェインはこくりとうなずいた。その恥ずかしさは、なんとなく理解できる。 「じゃ、じゃあ……なんか用事があるみたいだから……ゴメン」 「う、ううん。 いいよ……」 「あ、ウェイン見っけ」 顔を隠すのをやめて、いそいそと出した本を片付けると、ようやく少年はウェインの姿を認識したらしい。こちらにやってくるが、隣の自分に関しては目に入っていないようだ。 「な、何? リーデル……」 「今日はコートで勝負だろー? 忘れたのかよ?」 遠慮をしないと言うか、声が元々大きいのか、リーデルと呼ばれた少年の声は図書室内にはっきりと響いているだろう。正直、耳に痛いぐらいだ。 「分かった、分かったから……ほら、早く行こう」 「おう、それでこそSHBVCだ」 わっはっはっはっは、と物語か漫画でしか見ないような笑い方をして、ウェインに押されながら彼は入り口の方へと向かって行く。 (あの人が『信じる人』なんだろうけれど、苦労するだろうな……) 一人苦笑するレコの思いを知ってか知らずか、ウェインは出る前に一度こちらを向いて軽く頭を下げた。それに応えて、レコは軽く手を振る。わずかな時間しか語り合っていないけれど、彼のおかげで見出せたものがある。 「さて……と」 闖入者が去り、再びざわめきの戻ってきた図書室の中で、静かに立ち上がる。帰るわけではなく、心に決めたことを成すために。 (少しでも助けになりたい……か) 廊下は傾いた日の日差しでオレンジ色に染まっていた。まぶしく、熱く照りつけるその光の中をレコは迷うことなく進む。先ほど帰ろうとしたときのノロノロした足取りとは比べ物にならないほどに、その歩みはしっかりとしている。 今日の月は、悪くなさそうだ。 続く |
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