メトとレコ・第7話

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7.心内



 夕暮れが道をオレンジ色に染めていく。その脇に広がる平原を見つめながら、レコが歩いていた。帰り道ではない。彼の向かう先は自分の家ではなく、メトの家。
 その足取りは速く、まっすぐに彼の家へと向かっている。と言っても、脇へそれる道など無く、一本道なのだが。
(大丈夫かな……)
 胸中は彼の身を案じる気持ちだけで埋め尽くされていて、初めて行くメトの家への不安など微塵もない。橋を渡りきり、少ししたところで―――不意に、レコはその歩みを止めた。
 その目が見上げるものは、道の脇にぽつんと生えている木。この下でメトと初めて出会った―――。
「いや、もう一度、か……」
 何時に無く厳しい顔でそう呟くと、レコはさっと振り返りまた歩き出す。時間はあまり無いから急がなくてはいけない―――そう考える彼の足は、いつしか早歩きから走りに変わっていた。

 森を抜けて広がる平原、緑に囲まれたドギークラウンの中では村はずれのそこに、メトの家はある。住宅地でもないここに、ぽつんと一軒だけ建っているそれが、まるで今の彼の孤独を表しているようだ。
「もう少し……あれは?」
 彼の家まで後数十メートル、と言うところで、木の影から出てくる人が視界に入る。夕闇でよく見えないが、こちらに向かってくるあの長身は見紛うはずもない―――。
「ニルバ……君?」
「……レコ君か……」
 こちらの姿を見ると、まるで苦虫を噛み潰したような表情になるニルバ。歩みを止めた彼に小走りで近寄り、レコはその頭一つ分も違う彼の顔を見上げた。
「どうしてここに?」
「別に君に言う必要は無いだろう」
「……」
 突き放した物言いではあるが、何よりもその行動が物語っている。それを自覚しているのか、体格の差は歴然であるにもかかわらず、レコに目を合わせようとしない彼。
「お見舞い?」
「……君には関係ない」
 眉を吊り上げ、さらに不快そうに顔をゆがめるニルバ。その迫力に思わずたじろぐも、彼の反応は同時に見舞いにきたと推測するレコに確信をももたらした。だからであろうか、わずかに見える優しさに少しだけ期待して、もう一度だけ聞いてみる。
「会えなかったの?」
「人の話を聞いてないのか? 君には関係無いと言っただろ」
 しかし彼の返答は変わること無く冷たいままで、吐き捨てるかのようだ。恐らくこれ以上問うたとしても、何一つ本意は聞き出せないだろう。
「……そっか。 じゃあね」
 何も話そうとしない彼を相手にしていても仕方がない―――そう考えて、レコは脇を通り抜け、メトの家へと向かう。
 が、
「……待て」
「え?」
 唐突に腕をつかまれ、その動きは半ば強制的に止められた。驚いて振り向けば、今度は眼をそらさずにじっと見つめてくる、茶色の瞳。
「どう、したの?」
「……メトはここに居ない。 隣町の病院に入院してる」
 先ほどまでの彼のはっきりと通る声とは一変して、蚊の鳴くような細い声。それを言い切った途端、乱暴に掴んだ腕を払い、身を翻す。その急で一方的な彼の行動に、少しだけ呆気に取られたが、すぐにレコは笑顔になると、風のように走る彼の背中に手を振った。
「ありがとう! ニルバ君!」
 その声が届いたかどうかは判別しようが無い。が、声に出した直後、彼の走る速度がさらに上がったことから、恐らく聞こえているのだろう。
「さて……と」
 表情を引き締め、再びレコは目と鼻の先である、メトの家へと向き直った。ニルバの情報を疑ったわけではない。ただ、彼が住む家を見ておきたいと言うただの好奇心。
「……」
 自分の家と同じ、2階建てのそれを間近で見上げながら、彼がここでどんな生活を送っていたのだろうと考える。
「全然違うんだろうなあ……」
 家に親が居て、一緒に過ごせるという感覚は、レコにとって乏しいものである。それができるメトが―――いや、彼だけではなく皆がうらやましい。
 しかし今、目の前の家の中には誰も居ない。夕暮れだというのに点かない電気、物音一つ聞こえてこない室内。空っぽのそこは、いつもの自分の家と、同じだった。
「行かなきゃ」
 目を細め、ぼそっと呟くと、さっきまで走ってきた道をまた走り出す。ここからバス停までは遠く、急がなければ面会時間に間に合わないかも知れない。一抹の不安を抱えながらも、レコはひたすらに夕焼けの道を駆けた。





 リミュの病室、窓辺から差す夕日が白い布団を暖かなオレンジ色に彩っている。眩しさに目を細めながらも、窓の外を見上げる彼女はどこか気持ち良さそうだ。
「それにしても、あなたが帰ってきているなんて……」
「それは私も驚いてるわよー。 もう戻ってこないと思っていたのに」
 そのベッドの傍らには何故かメトの母、アリアの姿。相変わらず間延びした声ではあるが、嬉しそうな笑顔を見せている。
「本当に、久しぶりね。 元気そうで本当によかった」
「あなたはー……相変わらず、みたいね」
 柔らかく微笑むリミュの顔を見ながら、犬人の女性は少し悲しげにメガネの奥の瞳を細めた。
「大丈夫、何もそんな酷いわけじゃあないんだから……」
「そうー? それならいいんだけど……ね」
 視線をそらした彼女に、気にするなと言う風にリミュは手を左右に振る。そう言われても心配は尽きないのか、目の前の彼女は眉をひそめたままだ。
「10年以上経つけれど、あなたも相変わらず心配性ね」
「それはそうよ? だって友達じゃない」
 さも当然と言わんばかりに胸を張るアリア。久しぶりに出会った旧友がどのように自分を捉えているかは、特に考えていないようだ。
「ありがとう。 病院の中には知り合いなんてほとんど居ないから、嬉しいわ」
「そうなの? でも結構入院して長いんでしょ? 顔見知りぐらい……」
「見ての通り、この病室は私以外カラッポ。 看護婦さんとは顔見知りだけど、話し相手になるにしても限界があるでしょう?」
「あぁ……」
 肩をすくめて首を振るリミュと、なるほどとうなずくアリア。
「あ、でも……あなた以外に最近会いに来てくれた人が居たわ」
「あらーよかったじゃない」
 声はあまり抑揚が無いが、手放しで喜ぶ彼女が微笑ましい。その様子を見ながら、リミュは訪ねてきた『子供』を思い出していた。
「この前の休みの日に……まだ子供なんだけど、友達だって息子が連れてきてくれたの。 それも犬人なのよ」
「犬人……確かにあの村じゃ珍しいわねぇ……」
 うーんと首をひねるアリアもまた犬人なのだが。逆に同種族だからこそ珍しさが分かるのだろうか。
「でしょ? メト君って言うんだけど、元気そうな子だったわ」
「……メト?」
 相槌を打つわけでもなく、名前を口にするアリア。先ほどまで笑顔だったその表情は、一転して驚きに変わっていた。
「ええ、銀髪で、黒い地毛の……」
「それ、ウチの息子」
「えっ? ホントに?」
 予想外の反応と予想外の言葉。二人は互いに見つめながら、大きく見開いた目をぱちぱちとしばたかせる。
「じゃあ、入院してる息子さんって……」
「メトよー」
「見舞いに行こうと思ってたら、まさかメト君だなんて……何か病気?」
 何気ない一言だったが、旧友はその顔を途端に曇らせ、押し黙ってしまった。余程重症なのだろうか―――そう思えるほどに沈黙は二人に降りかかり、先ほどまでの柔らかい雰囲気はどこかへと行ってしまった。
「……」
「あの、何があったのか分からないけれど、そんなに悪いの?」
「いえ、そういうわけじゃないんだけど……体中が打撲とかの傷だらけで、丁度おとといの雨に打たれたせいか、風邪までひいちゃってー」
 部屋に来たとき命に別状はないとは説明されたが、笑って否定できるほど単純なものでもなさそうだ―――微妙に歯切れの悪い回答に、リミュは引っかかりを感じた。
「十分悪いじゃない……本当に大丈夫?」
「特に酷い怪我とかはないけど……完治するまでは時間がかかりそうだって」
「そうなの……」
 うつむき加減のアリアの顔からは、息子を心配する気持ちがありありと感じられる。そんな彼女にどう声をかけていいのか分からずに顎に手を当てたその時、
「多分、『制裁』でしょうね」
「!!」
 聞き覚えのある単語に背筋を怖気が走った。それは十年以上も昔に、あの村で聞き慣れていた言葉。
「じゃあ、メト君って?」
「嫌悪派なのよ、あの子」
 猫人を嫌い、憎悪する犬人達。友人を重んじる人種の気質ゆえに、彼らの『派閥』は裏切ることを許さない。猫人と友達になろうとした犬人が、集団に暴行を加えられ重傷を負うことは何も珍しいことではなかった―――十数年前までは。
「恐らく、メトは……猫人と友達になったことを犬人の友達に知られたのねー」
「それが今回のことに結びついたって? そんなことって……」
 ぶわっと強い風にあおられ、カーテンがはためく。とても想像がつかなかった。いくら裏切りに厳しい態度をとる犬人とは言え、相手はまだ幼い子供ではないのか?
「でも、現にうちのメトは『そうなってる』」
 アリアの落ち着いた声が今は逆に冷たく感じる。諦めと悲しみの入り交ざった言葉が、じきに訪れる宵闇のように、ただ重くのしかかる。
「それで……どうするの? このままメト君は学校に行かせていいの?」
「正直、まだどうしていいのか分からない。 けど、とりあえずあの子が起きてから話してみるつもり」
「そう、そうよね……」
 今すぐに決められる問題でもないが、ゆっくりと決めている余裕もあるわけではないのだろう。首を横に振ったアリアの顔に、隠されていた疲労の色が見えた。
「私たちの頃は、『裏切った』と思われたら文字通りあの村での居場所がなかったけど。 今はどうなのかしら?」
「今は村長が猫人なのもあって、村全体の空気としては緩んでるようには見えるけど……」
 それは村のはずれに住んでいるアリアにとっては分かりにくい疑問でもある。ただ、空気だけは十数年前のピリピリとした空気とは違うと実感していた。
「いずれにせよ、メトが起きてからの話、ね」
「私としてはメト君にはあの村に留まって欲しいけど」
「どうして?」
「レコが……寂しがるだろうから。 うちの息子が今回の原因だろうに、勝手な話よね」
 首をかしげる彼女に対し、申し訳なさそうに苦笑する。これからの彼らの険しい道を考えずに、なんて勝手な言い草だろう。
「別に構わないわよー。 あの子はともかく、仕方のないことだと私は割り切ってるし……間違っているのは、むしろ両方と仲良くできないあの村のほう」
「そう言ってもらえると助かるわ……」
「むしろ、あの子に猫人の友達が『また』出来た事の方が嬉しいわ……あれ? さっきレコって言った?」
 リミュに話しながら何かを思い出したのか、急に眉根を寄せて不可解だと言わんばかりの表情を見せる。
「え? ええ、うちの息子だけど」
「あぁー、なるほど。 それであの時メトのそばに居たんだ……」
「? 話が見えないんだけど……」
「実はね……」
 一人納得してうんうんとうなずくアリアが、一体何の話をしているのか分からない。困った顔で首をかしげるリミュは、この後息子たちと自分たちの奇妙な縁を知るのであった。



 同じ頃、まず来る事がない小児病棟の中を、レコは歩いていた。その右手には花束と言うのもおこがましいが、数本の花が包装され、握られている。ガラス張りになっている廊下から見える景色は既に紅ではなく、黒く染まりつつあった。
「あら、レコ君じゃない。 お母さんのお見舞いだったら逆方向よー」
「いえ、今日は友達のお見舞いなので……」
「そうなんだ? 場所は分かる?」
「はい、もう聞いてきました」
 すれ違う看護婦が自分を見かけるたびにそんなことを言ってくる。この時間帯、一人で見舞いに来る子供など自分以外いるようには見えないから、目立つのだろうか。
「ふぅ……わっ!」
「待ちなさーい!」
「へっへー! ここまでおいでー!」
 などと考えていると突然、目の前の扉が開く音がして、子供の犬人が脇を走り抜けていく(自分も子供だが)。親と思しき大人に追いかけられながら病院着でパタパタと駆けていくその体はどこがどう悪いのだろうか。
「元気だなあ」
 小児病棟という場だからか、それとも夕食の後の時間帯だからか、普段行く母の病棟よりも活気があるように見える。時折部屋の中から耳を劈くような奇声が聞こえてくるのにはびっくりしたが。
 とはいえ、その騒々しさも共同病室のあるフロアを過ぎると別のようで、個室フロアに入るとまるで別の階のようにしんと静まり返っていた。
「個室だったんだ……」
 看護婦に教えてもらった番号は、211号室。その部屋は、彼の家をあらわすかのようにフロアのはずれにあった。
「電気、点いてない?」
 目の前の緑色の扉の中に、電気は点いているように見えない。ネームプレートには確かにメトの名前が入っていて、居ることは間違いないはずなのだが。
「大丈夫かなぁ」
 彼に会うためにここまで来たはずなのに、扉を前にしてその気持ちは萎縮してしまう。寝ているんじゃないか、起こしたら悪くないか―――そんな『会いたくない』言い訳とも取れる考えが頭の中を渦巻いて、中々踏ん切りがつかない。
「でも、ここで会えなかったら意味がないもんね」
 自分の気持ちを落ち着かせるように呟くと、ひとつ大きな息を吐き、レコは目の前の扉をノックした。コツコツ、と遠慮がちな音が静かな空間に響く。そのまま数秒待ってみるが、返ってきたのは返事ではなく、静寂。
「……だめか」
 仕方なく振り返ろうとして、母親にでも会いに行こうかと思ったその瞬間、スライド式のドアがカラカラと開いた。
「あ……」
「……!」
 扉を開けた主は、会いたがっていたメトその人。だが、突然の来訪者に驚いたのか目の合った彼の表情は引きつっていて、そのままバランスを崩し、しりもちをついてしまった。
「メ、メト!? 大丈夫?」
「!」
 慌てて助け起こそうとレコが腕をつかむと、びくりと拒否するように体が震える。思わず腕を引っ込めると、彼はゆっくりと首を横に振って立ち上がった。
「だ、大丈夫?」
 ふらふらしながらのその行動に慌てて体を支えようとするも、メトは右手で制止し、ぎこちなく微笑んで見せた。少しだけ安心したが、事が事だけに油断はできない。
「……かわいそうに、こんなになっちゃって……」
 電気を点けてみて初めて分かったが、彼の姿は上は頭から下は足首まで、露出している体のいたるところに包帯が巻かれている痛々しいものだった。だが、悲しそうな視線に気づいたのか、メトはただ黙って首を振り、部屋の奥を指差した。
「入っても、大丈夫?」
「……」
 こくりとうなずく彼に促され、何もしゃべろうとしない事に違和感を感じつつも、ベッド傍の椅子に腰掛ける。少し遅れて、正面を向き合う形でメトもベッドに座った。
「えっと……その……」
 何を言うつもりでここまで来たんだっけ。実際に彼の姿を見て安心してしまったのか、その頭の中は、不謹慎ではあるがうれしい気持ちでいっぱいだった。
「会いたかったんだ、すごく」
 震える声で、ようやく搾り出した一言。会えなかったのは、たった二日ぐらいなのに、どうしてこんなにも恋しかったのだろう。
「わ」
 そんなレコの気持ちを、知っているかのようにメトの手が頭を撫でる。体が痛むのか、ぎこちない動きだけれど、それを微塵ももらさず、ただ優しい微笑を浮かべていた。
「ありがとう……」
 辛いのは自分だろうに、その優しさは返って哀しく、痛々しく映る。
「ライル君から、何があったのかは聞いたよ」
「!」
 自分の口からその名前が出ることに驚いたのか、彼は目を見開いた。2日前まで全くつながりがなかったのだから無理もないが。
「メトが……仲間の人たちから殴られて大変だって、知らせに来てくれたんだ」
「……」
「多分、どうしても助けたかったんだと思うよ」
 不可解な顔をする目の前の友人を置いて、レコは椅子を立ち上がり、窓際の棚の花瓶に持ってきた花を挿す。既に水は用意してあり、挿すだけで大丈夫だった。
「ごめんね」
「?」
 座りなおした自分を、メトはなぜ謝るんだと言う風に首を傾げて見ている。しかし、何故と聞きたいのはこちらも同じだった。
「メト……」
「……!?」
 満身創痍の彼の体を、痛まないようにそっと抱きしめる。驚きか照れかは分からないが、その体は、息を吸う音と同時にビクリと強張った。
「声……出ないんでしょ?」
「……」
「僕のせいで……ごめん。 本当にごめん」
 うなずいた彼の肩に顔を埋めながら、何度も何度も謝罪の言葉を口にするレコ。それを恐らく望んでいないだろうと分かっていても、言っておきたかった。
「……」
 何も言わず―――正確には何も言えないのだが―――メトは頭を撫でてくれる。分かっている、といわんばかりに。
「僕……メトの事大好きだよ」
「!」
 抱きしめながら、ささやくように、しかし彼の耳に届くように言葉を発する。痛まないようゆっくりと体を離すと、目を丸くしている傷だらけの犬人に、優しく微笑んだ。
「自分が信じたもの、守りたかったもの……守ろうとしてくれた。 そんなまっすぐなメトが、大好き」
 守ろうとしたのは自分との絆。それまでの付き合いを断ち切ることだと知りつつも、自分との関係を守ってくれたのは、そこに代えがたい何かを見出してくれたからだと思う。自分との関係に、そんな価値を見出してくれたことがとても嬉しかった。
「……」
 照れ隠しにメトはあさっての方向を向きながら髪をぐしゃぐしゃと撫で回す。やや乱暴な彼の行動はとても分かりやすくて、ほほえましい。
「でも……辛かったね」
「……!」
 ぴたりと、その手が止まる。二日前の出来事は、彼の心身をボロボロに食い破った。それはもう変わることの無い、変えられない、現実。
「いきなりこんな……傷つけられて、友達もなくして……」
「……」
 それがどれだけ痛くて辛い事なのか、レコには想像もつかない。今まで、失うような友達は居なかったから。それでも、メトの気持ちは完全に分からなくても、その辛さを和らげてあげたい―――そう思いを込めて話すレコを、目の前の友人はただ見つめていた。
「僕がメトのそばにいていいのか分からない。 けど……」
 今回の事があったように、自分が彼のそばに居てまた傷つけられないとも限らない。しかし、その道を選んだのは他ならぬ彼自身であった。不本意な選択肢しかなかった中で、選んだ道。
「僕は君を守りたいんだ。 ずっと、君のそばに居たいから」
 ならば自分はその道に共に立ち、支えとなろう。
「……!」
 決意を表す言葉に、メトは目を丸くしていた。あまり、守るという言葉は似合わなかったかもしれないな、と思っていたが―――
「わ!」
 見る見るうちに顔をくしゃくしゃに歪めて、彼はこちらに抱きついてきた。
「っぐ……うくっ……っふ……」
 くぐもった嗚咽を漏らす彼の顔がどうなっているのか、真横にあっては見ることはかなわない。だがきっとそこにある顔は、さっきの自分と同じく、出会ってから今まで見せたことの無い、『顔』なのだろう。
「う、う、あぁぁぁっ……うわぁああああん!」
(声……)
 嗚咽はだんだん大きくなり、やがて叫びへと変わった。二日ぶりに聞いた彼の声は、吐き出すようで、まるで抱え込んだ傷を洗い流そうとしているかのようにレコには映る。
「辛かったね……本当に」
「うぅ゛うう〜っ」
 泣き続ける彼の頭にそっと手を当て、優しく撫でてやる。心が落ち着き泣き止むまで、レコはずっとそうしているつもりだった。
「うっ……ふぐっ……レ……コっ……」
「大丈夫……ここに居るよ」
 嗚咽で言葉をつっかえながらも、メトは確かに友人の名前を呼んだ。何者でもない、レコだけを求めて。
「うく、ふ……ふぅっ……うぅ」
 抱きしめている腕の力はますます強く、少し痛いくらいだ。でも、それを引き剥がそうとはは思わない。それで彼の傷が、痛みが和らぐのならば。
「僕は……」
「……くっ……ぐ……ぅ……?」
 言うべきか、言わざるべきか、迷う。しかし、今泣いている彼は、自身の信じて、自分と共に居ることを選んだ。……選んでくれた。
「本当は、メトがもし……今までの友達か、僕かを問われたとき、犬人の友達の方を取るだろう、って思ってた」
「……!」
 体を離すと、メトの潤んだ瞳が驚きに揺れている。あの村での状況を省みて、それは無理の無い答えであると誰もが言うだろう。
 しかし、同時にそれは、完全に信じても居なかったということでもある。レコの心には、あの日のライルの言葉が深く突き刺さっていた。
(結局、メトはお前を選んだ……可哀想なのは、お前に大切に思われてないって事だな)
「でも、君は……僕を選んだ。 僕、と言うよりは自分の信じた事、なんだろうけど」
「……レコ……」
 声を出せなかった時の影響が残っているのか、彼がかすれた声でつぶやく。こちらを見つめる潤んだ目にいたたまれなくなって、レコは少しだけ目を逸らした。
「メト」
「?」
 しかし、これだけで話を終わらせるつもりではないのだ。罪悪感を押さえ込み、改めて彼に向き直ると、まっすぐにその目を見据えて口を開く。
「だから、僕も君を信じる。 何があっても君を信じる。 たとえ傷ついても」
 こんな陳腐とも取れる台詞を言うのは、物語の主人公ぐらいだと思っていた。それも、大分王道的な。でもその言葉と心に、偽りは無い。
「……」
 しかし、その言葉にメトはただ悲しそうに顔を曇らせるばかりだった。物語であれば、これを機に二人の絆は深まるはずだが、現実はそうも甘くないようだ。
「そんな、こと……言うな」
「……どうして?」
 目元をぬぐいながら、かすれた声を上げるメトの表情は、悲哀よりも苦悶を浮かべているように見える。何が一体彼を苦しめているのか、分からない。
「誰にも……傷ついて、欲しくないんだ」
「メト……?」
 今回のことで、一番傷ついたのは恐らくメトだ。それでも、痛めつけられても、裏切ってしまった人たちを気遣っているのか―――少なくとも今のレコにはそう映った。
「そんな心配しなくても……僕は大丈夫だから」
 頭を抱えた彼をなだめようと、その背中に手を伸ばす。だが触れた瞬間、再び体は拒絶するようにびくりと震えた。
(なんで?)
 それは一瞬だけのことなのだが、思わず手を引っ込めたレコには、先ほど出会ったときの小さな拒絶を思い出さざるを得なかった。
「そうじゃ、ない。 そうじゃないんだよ……お前が傷ついたら、俺は……俺は……」
 友達だった犬人を気遣っているんじゃない。ぶるぶると震えている彼の体を見て、気づいた。
「僕が……傷ついたら?」
 メトは、恐れている。『レコが傷つくこと』を、では無い。もっと先を見ている。その『先』が何なのか知りたくて、レコは背中を伝う冷たい物を感じながらも、彼を促した。
「……」
 沈黙。少しだけ温かかった空気は既に無く、張り詰めた重苦しい雰囲気が病室を支配する。慰めようにも彼の体に触れていいのか、今の自分には分からない。分かることは、メトが予想を超えて思い悩んでいたということだけ。
(……悩んでいたのは知ってたくせに)
 心のどこかで、メトだったらすぐに元気に笑顔を見せてくれると思っていた自分が嫌になる。彼はこんなにも苦しんでいたというのに―――病院に付き添ってくれた日も、悩みを話してくれていたというのに。何も気づけなかった、何もしてあげられなかった。
「わからない……」
「え?」
 沈黙を破ったか細い声に、レコは顔を上げる。メトは頭を抱えたままだったが、体の震えは収まっているように見える。
「でも……怖いんだ」
 『傷ついた』後に待ち構える恐怖は、彼の中でも得体の知れないもののようだ。上げられた顔には、自分でも分からないそれに対しての困惑が見て取れる。
「何が……怖いの?」
「……レコが傷つくって思うと……何かが、壊れそうな気がして」
 傷つくところを想像したのか、ぎりりと歯を噛み締める音が聞こえる。それを防げない自分の無力に対しての悔しさだろうか。先ほどの自分が感じたような、あの感情と同じなのだろうか。
「メト……」
「?」
「僕には、君が何を恐れているのかまだ分からない」
 心の奥のそれに、自分が触れていいかも分からない。
「でも……さっきも言ったけど、僕はメトのそばに居たいんだ。 だから、守る。 だから、傷ついたって構わないんだ」
 でも、それだけの覚悟をした。そばに居たいという自分の望みを果たすため。
「だけど、それで自分を責めないで」
「……!」
「僕が傷ついても、そばに君が居てくれれば……僕はそれでいいんだ」
 未だ恐れているものが何かは分からない。けれどその根っこは、分かる気がした。結果的にとは言え、裏切ってしまった仲間への罪悪感。そして、これから巻き込んで傷つけるかもしれない事への不安―――。
「それでも怖いなら、こうしてあげる」
「わ……」
 そう言うや否や、レコは再びメトの体を抱きしめる。今度はわざと気遣わずに、思いっきり。
「いた、痛い、痛いって……」
「うん、痛いよね」
「わ、分かってるなら、やめてくれよ」
 当然のように傷だらけの彼は痛みを訴えてくるが、あまり嫌という風には見えない。とりあえず力を緩めると、ぎこちない動きの腕が背中に回されていくのを感じた。
「ありがと、な」
「どういたしまして」
 はにかむ彼の言葉を聞きながら、今度はやさしく頭をなでる。窓の外からは昼間に比べて涼しい風が流れ込んできて、少し気持ちいい。
「僕も……痛かったよ」
「……?」
「君を見つけたとき……凄く悲しかった。 本当にそんな目にあったなんて、思ってなくて」
 自分の体を抱く腕の力が、少し強まる。ただ黙ってそうしてくれる彼の気持ちに、暖かいものを感じた。
「何も出来ない自分が悔しかった。 メトを信じられなかった自分が、どうしようもなく嫌だった」
 ライルに責められたから、そう思うわけではない。前々から、心のどこかでメトを信じきれていない自分を感じていた。
「自分を責めれば責めるほど……痛くて、苦しくて」
「レコ……」
「会わなければよかったのかな、って考えたりもした」
 ライルに言われ、いくら彼を信じると決めた後でも、一度でも疑った自分にその資格があるのだろうかと、自己嫌悪は止まらなかった。
「でもね、やっぱり……嬉しかった事や、楽しかった事、否定できないんだ。 無かったことにはできなくて……だから余計切なかった」
「……」
 ぐりぐりと頭をなでられながら、ああ、とレコは心の中でつぶやく。メトに会いに来た本当の理由が、ここに至ってようやく分かったのだ。
「そっか……」
「レコ……?」
「……んーん、なんでもない」
 けれど、その答えを隠し、首を振る。今は言えるものじゃないから、それは心の奥にしまっておこうと決めて。
「あ、忘れてた」
「え?」
「聞きたいことがあって」
 今の今まで話しておきながら、その前提となる条件については何も話してなかった。とても重要なことでありながら、ごく自然に流されていたそれは―――
「僕、メトのそばに居てもいい?」
「……うん。 もちろん」
 少し照れながらの問いに、メトは一度瞬くと、すぐに首を縦に振って返した。見慣れた笑顔と一緒に。

 窓の外には青く輝く月が見える。予想したとおり、悪くない。





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