メトとレコ・第8話後編

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8.渦中(後編)


 眩しい朝日の中、子供達が自分の教室を目指して次々と校門をくぐっていく。ふざけあったり、笑いあったり、駆け込んで行ったり、その姿は様々だ。
(変わってない)
 登校する生徒達を見ながら―――自分もまたその中の一人なのだが―――メトは内心ほっとしていた。もしかしたらレコと並んで歩いている姿を見て、或いはそうでなくとも、かつての友人達から嫌がらせを受けるのではないかと不安であったからだ。
 しかし、周りを見るに、同じクラスの人はちらほらと見えるものの、あからさまに敵意を向けてくるような者はいない、メトの知ってる『いつもどおり』の登校風景。
 違うのは―――
「……」
「ん? 何か言った?」
「いや、何でもないよ」
「そう?」
 声にならない呟きに反応して、青い瞳がこちらを覗きこんでくる。軽く横に首を振ると、すぐに彼は前を向いてしまった。
(違うのは俺なんだ……)
 2週間ぐらい前まで、隣に居るのはレコじゃなくて、犬人の友人達だった。その頃はまさかこうして彼と並んで登校するとは思いもしなかったわけで、どこか違和感を覚える。
(でも……)
 その『違い』を生み出したのは他ならぬ自分だ。幸いな事に、今のところそれが周囲に大した影響を与えているようには思えない。
「考えすぎかな」
「どうしたの?」
「学校に来たらさ、嫌がらせされるんじゃないかなーって不安だったんだけど、別にそんな雰囲気でもないし……」
 改めて周りを見回しても、特に変わったところもなく、平和そのものだ。時折こちらを物珍しげに見ている目はあったが。
「あぁ……それは僕も不安だったけど……」
 話している間にグラウンドの脇を通り、二人は昇降口へと入っていく。日差しは遮られ、外よりは幾分か涼しい。そして、生徒の大きな流れは細かく分かれて、先ほどよりクラスメイト達に接触しやすくなっているはずだが―――
「何もないね」
「……だな」
 行き交うクラスメイトは、一瞬だけ足や目を留めたりするものの、何事も無かったかのようにそのまま教室へと向かっていく。驚くほどノーリアクション。この暑い中、構っている暇など無い、と言う事なのだろうか。
「うーんこれは重く考えすぎてたのか?」
「ど、どうなんだろうね……」
 途端、楽天的に考えが移行するメト。普段だったら挨拶を交わしていたはずの人間に無視される、などの違いもあるのだが、想像していたよりは軽い。
「まぁ、このぐらいなら平気平気」
 ほっと胸を撫で下ろしながら自分の上履きに履き替える。もちろん、上履きはおろか下駄箱にも何の細工も無い。ラブレターの一つでも入っていたら面白いのだが。
「いや、でももう少し気をつけたほうが……また入院とか、嫌だよ?」
「ならねぇよ……そんな早々、な」
 教室へ向かって歩き出すと、背後から気を抜きすぎだとレコが声を上げる。大丈夫と手を振って返すが、彼の言う事も分からないでもなかった。
「確かにそれはそうだけど……」
「そこまで気を抜いたわけじゃないって、な?」
 あんな思いは、2度としたくはないし、させたくもない。その為にも、突然降りかかる悪意には気をつけていたい。ただ、一度徹底的に痛めつけられた自分が、再びそうなる可能性と言うのは低く思えた。
「ま……難しく考えたって、なるようにしかならないだろ?」
「……うん」
「覚悟してるさ」
 登校してきていることが、何よりその表れである。それを、隣を歩く猫人も分かってくれているはずだ。
「そ、そうだね……覚悟した者は幸福であるって言うもんね……」
「……初耳だけど」
「どこかの神父さんが言ってたよ?」
「誰……?」
 何かの本の知識だろうか、メトには彼が指す物が何か分からない。とりあえず同意はしてくれているようだ。
 ともあれ、そんな話をしているうちに二人は既に教室の前。訝しげにこちらを見ながらも、ごく普通に入っていくクラスメイトと違って、ドアに手をかけようとしてためらってしまう。
「メト……」
「……大丈夫だ」
 後ろからの囁く声に返しつつ、一つ大きく息を吸い込むと、意を決してドアを開け放つ。決意とは裏腹に、その開け方はとてもゆっくりとしたものだったけど。
「……」
 中にいる、他の生徒と目が合う。あの時、一緒に殴ってきた犬人の一人だ。ぐでん、と言う表現がよく似合う感じで机の上に顎を乗せていたが、すぐにそっぽを向いてしまった。
「……」
 この位は仕方がないだろう。見るなり殴りかかりに来なかっただけ、マシだ―――と、自分に言い聞かせつつ、ドアの隙間から体を教室へ入れる。
「あ、あれ……」
「来たんだ……」
「ふーん」
 途端、ざわついていた教室内は息を潜めるように静まり返り、あちこちから好奇の視線がメトへと突き刺さる。それはきっと、後ろから続くレコにも同じように。
「……」
 表向き何でもないと言う風を装い、自分の席へとメトは向かった。その動きを逐一逃さぬかのように、クラスメイトが見ている。誰も悪意を持って手を出そうとはしない、けれど確かに見ている。それが却って不気味ではあったが、構ってもいられない。
ギギッ
 わざと音を立てて椅子を引き、背負っていたリュックを机に置く。少し間をおいて、レコも自分の肩掛け鞄を外して真後ろの席に着いた。こうして二人同時に着席するのは初めての事だ、やはり周囲にはおかしく映っているのだろう。目を彼らに向ければ、慌てて視線をそらす人ばかりだ。
(なんか、変な感じ……)
 元のグループからしてみれば悪いのはこちら、となっているはずなのに正面から責めて来る人は誰も居ない。メトにしてみれば、それゆえに責められて当然と言う所があるので、何か奇妙な感じだ。
「ん……?」
視線を気にしつつも授業の用意をしようと机に手を入れれば、カサ、と触れる何か。何か入れたままだっただろうか?
(……紙……?)
 奥にあったそれを引き出してみると、小さく折りたたまれた紙。丸められたゴミのようなものとは違い、綺麗な形だ。もちろん、メトにはそんなもの作った覚えはない。
「あーっ!」
「へっ?」
 裏返そう、と考えるのと同時に、空気を切り裂くような甲高い声。誰もが突然の大声に反応し、その方向――教室の入り口――に顔を向ける。紙に目を落としていたメトもまた、少し遅れながら視線を移そうとすると―――視界を緑色が通り過ぎた。

どすっ

「はぅっ!!?」
 色を認識した直後、腹部に走る衝撃。その大きさに治り切っていない体中が軋み、素っ頓狂な悲鳴を上げる。
「メトくん! 退院おめでとー!」
 すわ殴られたか、と言う思いは腹部から響くくぐもった声によってかき消された。声の居所は、真下。腹にうずもれた、煌く緑色の髪の毛、低学年かと見間違えるようなその体格、そして空気を破壊するこの声。
 間違いなく
「委員、長……」
「あれ、どうしたの、どっか痛い?」
 痛みに耐えつつ呻くように声を絞り出すと、彼女はこちらを見上げて心配そうに見つめてくる。その真っ直ぐな瞳は一目でわかるほど潤んでおり、ふとしたショックでこぼれてしまいそうだ。
「う、いや……その」
 これが今までの友達だったならば、「お前のせいだろ」と、気軽に言えるのであるが。この委員長―――ケイミィに対してはそうも行かない。変に刺激して泣かれでもしたら厄介なことになるのがこのクラスの常識だ。
「あ、あの……いくらなんでも病み上がりの人に突っ込んじゃだめだよ……」
「え! ご、ごめん! ……だ、大丈夫?」
 周囲から同情の視線を向けられる中、助け舟を出してくれたのは、やはり、というか必然的に真後ろのレコであった。その言葉を聞いたケイミィは慌てて飛びのき、申し訳なさそうに眉を下げる。
「なんとか……」
 自分でも痛みに頬を引きつらせているのが分かるが、とりあえず親指を立てて返しておく。耳をぺたんと伏せてしまった彼女には、とてもではないがそれ以上言う気にはなれない。
「よかった〜。 でも痛くなったら保健室にちゃんと行くんだよ?」
(……痛くしたのは誰だよ)
 と、口に出せるわけもなく、メトはただうなずく。彼女の悪意のなさは分かっているつもりだが、それでも何かもやっとする。
「それじゃ、また後でね。 何か授業で分からないことがあったら聞いてね」
「あ、ああ。 ありがとう」
 言いたいことだけ言い終えると、彼女はさっと自分の席へと向かって行った。本当は、お見舞いに来てくれたお礼を言いたかったのだけれど、そんな話を挟むスキは無く。
「……」
「風、みたいだね」
「……ああ」
 ぽつりと漏れたレコの一言に、メトは心から同意するのだった。
「全く、困った子だなあ」
「う、うん……」
 大きくため息を吐き出して肩を落とすこちらの様子を、彼は苦笑しつつ見ている。自分も同じ子供なのに、『子供』と言ったことに対してか、それとも委員長の行動に対してか分からないけど。
「……」
 そんなことより今は、机に入っていたこの紙切れが気になる。どこにでもあるような紙を四つ折りにしたそれは、表側に小さく丁寧な字で『メトへ』と書かれていた。手紙なのは分かる、問題は―――
(誰が入れた?)
「それは?」
「机ん中に、入ってた」
 こんなもの入れられる覚えはないが、開けないと言う選択肢もない。そっと中を開くと、広い紙面の真ん中に短い文が書いてある。

『放課後、屋上で待つ』

「なんだこりゃ?」
「呼び出し……だね」
「あぁ」
 一体、誰が何の目的でこの手紙を入れたのだろうか。ただ、その字にはどことなく見覚えがあるような気がする。
「ふーん……まぁ、いいか」
「いいの?」
「こんな時に呼び出しなんて、ロクなこと考えられねーって」
 怪訝そうに眉を曲げるレコに、ないないと手を振り、紙切れをそっとたたんでリュックに入れる。かすかに心に引っ掛かるものの、さすがに今行きたいとは思わない。
「うーん、それもそうだよね……」
「また後で考えるさ。 とりあえず今は用意しないとな」
「うん」
 委員長の事もあって未だに机の中には教科書を入れていない。それはレコも同じだったのか、真後ろを見ると、机には鞄が載ったままだ。早いところ自分も教科書を出して片付けなくては。こちらへの視線はもう、気にならない。
(今日、どっから始まるのかな)
 教科書を手に取ると、今度は別の不安がやってくる。一応、レコにある程度進んでいるところを教えてもらったりはしていたが―――
(まぁ、何とかなるか)
 一瞬止めた手は、すぐにまた机へと動き始める。何せすでに大きな心配の種は乗り越えているのだ、それと比べてしまえば、メトにとっては小さなことにすぎなかった。
 覚悟しているのだから、耐えなければならない―――そう考える彼が、成長していることに気づくのはまだ先の話。

 教室のざわめきは、生徒が増えるにつれだんだんと大きくなり、病院の静けさとはかけ離れた環境に違和感を覚える。ただ、暑さに文句を言う少年、テレビの話をする少女たち、1週間を飛ばして改めてみる教室は、記憶の中とあまり変わらない。
 ここも、『いつもどおり』なのだ。ただ、色々な輪がある中、自分はそこに溶け込めていないだけ。つい昨日の事のように、友達と話していたことを思い出せるのに、何故自分の居場所はそこにないのだろう。ふっと心の中を寂しさが通り過ぎる。
「なぁ……」
「ん? どうしたの、メト?」
 体をねじり、後ろを見ると、レコは読んでいた本から顔を上げた。他の人たちがしている様に自分たちも話したい、とは思ったが―――
「うん、えっとな……」
「?」
いざ改めて話そうと考えると、何を話せばいいのか分からない。何だろう、と本の読む手を止めた彼も、不思議そうに首をかしげていて、話は始まりそうもなかった。
「その……何の本読んでるんだ?」
「え? ああこの本?」
 苦し紛れに出てきた話は、今手に持っているその本であった。図書室から借りて来たのだろうが、軽く持ち上げられたその背表紙には―――
『神秘の古代文明、デスマスクに隠された世界滅亡の秘密』
と、書いてある。
「……何これ」
 表紙には、劇画調で描かれた原住民たちと思しき人々が倒れており、その真ん中には犬人か狼人の顔を模した仮面がでかでかと描かれている。なんだか、とても、胡散臭い。
「最近図書室に入った本なんだ。 昔の文明の遺産に世界が滅亡されることが記されてるんだってー」
「あ、ああ、そ、そうなんだ」
 目を輝かせて話すレコは、どうやらこの本にはまり込んでいるようだ。まさか本当に信じてたりするのだろうか?
「……で、いつ世界が滅ぶんだって?」
「えっと……10年後みたい」
 彼が改めて本に目をやると、出てきたのは意外と近い年。そんな頃には自分たちは一体どうなっているのだろう。大人になっているのは分かるけれど、とても想像がつかない。
「早いなー。 俺の人生もあと10年かー」
「まぁ、このお話の中ならね」
「へ?」
「あ、これ……SFと言うかオカルトと言うか……そんな感じの物語だよ?」
「……なんだ」
 てっきり現実の世界を指しての話だと思っていたが、そうではなかったらしい。一安心するとともにどこか拍子抜けでもある。
「予言でも書いた怪しい雑誌かと思ったよ」
「さすがにそう言うのは入ってこないと思うよ……」
 苦笑しつつ、本にしおりを挟むとレコは机の中にしまってしまう。もっと読んでいても構わないのに。
「もういいのか?」
「ん、いいよ。 話、したいんでしょ?」
「……あ、ああ」
 こちらが何をしたかったのか、彼は既に分かっていたようだ。その表情は変わらず、優しげな微笑みを浮かべている。
「よく分かるなあ」
「なんとなく……ね」
 その『なんとなく』、でこれまで何度となく心を見抜かれているような気がする。彼ほど人の気持ちを察するのに長けている人物を、メトは他に知らない。
「たまに、お前心読めるんじゃないかって思うよ」
「そんな事ないけど……あてっ」
 困ったように眉を曲げる彼に一つ、デコピンを食らわせておく。見抜かれてしまった照れ隠しと言う奴だ。
「んもー」
「へへっ」
 レコは痛そうに額を押さえて頬を膨らますものの、その姿がどこか可笑しくて、つい悪戯っぽい笑みが漏れてしまう。当の彼自身も、口だけの抗議でその目は笑っているのだが。

キーンコーンカーンコーン……

「あ、もう時間だね」
「なんか、久しぶりだな……この音も」
 朝礼が間もなく始まるが、1週間ぶりに聞くチャイムの音はなんだか懐かしい。ざわめいていた教室内は生徒がそれぞれの席に戻るにつれて小さくなっていく。
「メトも前向いた方がいいよ」
「うん、そうだな」
 と、答えたところで―――
ガラララ……
教壇近くの戸が開かれた。まるで見計らったかのようなタイミング。もちろん、そこに立っているのは担任の先生だ。こちらに視線を向けると、まだ小さくざわめいていた声は一気に小さくなり、教壇に先生が着くまでのわずかな間に一言もなくなってしまった。
「それではみなさん、おはようございます」
『おはようございまーす!』
 にこやかに、落ち着いた声の挨拶が響くと、元気よく返す生徒たち。もちろん、その中には二人も含まれている。

 こうして、何事もなく学校生活は再び始まった。先行きは見えずとも、前を向こうと懸命に自分を奮い立たせるメト。そして彼を支えようと心に誓うレコ。しかし、自分たちを飲み込もうとする大きな渦が、すぐそこまで来ていることをまだ二人は知らない。





 白塗りの壁に、小さな黒板と折り畳み式の机。黒板には大分前の日付がそのままに残っている。掃除だけはされているのか、幸いにも埃っぽくはない。だが、誰が見てもあまり使われていないことは明らかだろう。初めて生徒会室に入るメトは、そんな感想を抱いた。
「少し、狭いですね……メト君はそちらへ座ってください」
「はい」
 時間は昼休みに入ったばかり、一般の生徒や教職員であればまだ昼食を摂っているはずだ。人気のないこんな室内にわざわざ来るような物好きはいない。メトはもちろん、そんな類ではないし、机を挟んで向かい合っている担任の先生だって違うだろう。
「……じゃあメト君、君が入院する前の日、学校で何があったのか聞かせてくれませんか」
 そして、聞かれる内容は予想通り、入院前の出来事。正直あの日の事をまた思い出すのは嫌なのだが。
「モー先生、それ入院中にも話したよ?」
「……そうですね、階段から転げ落ちて怪我した―――のでしたっけ?」
「うん……じゃなくて、はい」
 モー先生、と呼ばれた担任―――あだ名であり、本名はモードルートと言うのだが―――は病院でメトに説明された話を確かめるように声に出す。彼には本当の理由を説明してはいない。いや、彼だけではない、母親にすらも。
「……本当にそうですか?」
「そうだ……です」
「じゃあ、気を失った後何故林の中に居たんですか?」
「……分かんない、です」
 気絶した場所と見つかった場所の説明が食い違っているのに、一体誰がそれを本当と信じるのだろうか。メトも病院で説明しながら、二人が納得していないのをひしひしと感じていた。
「……どうして嘘をつくんです?」
「……」
 さすがに2度も同じ説明では見逃してはくれないようだ。モードルートは丁寧な態度は崩さぬままで、核心を突いてくる。責めるような問い―――もっとも、責められても仕方がないのだが―――ではあるが、声色まではその限りではない。
(どうして嘘をつく、か……)
 嘘と見抜かれて尚、メトの心は平静であった。二人ともそれが偽りであることを分かった上で話していたからかもしれない。大人の方としては、それを突きつけられても真っ直ぐに見つめ返す彼に多少驚いているのだが。
「きっと……本当の事を言っても、何も変わんないから……」
「……信用されていませんね、でも、話してみるまでは分かりませんよ?」
 どこか諦めた、突き放すような物言い。苦笑を浮かべつつも、食い下がるその態度は普通に見えるが、折れかかった耳が少し悲しそうである。
「変わらないよ、俺、知ってる」
「え……?」
 何を、と言いかけた口は言葉を続けることが出来なかった。子供とは思えぬ昏く淀んだ眼が、自分を射抜いていたから。
「変わってたら俺はこんなことなってない」
 その奥に見えるは怒りと諦め。ここに至るまでモードルートはメトの入院の原因は、種族間のいざこざによるものだと、他の種族によるものだと思っていた。笑い合っていた友達が彼を集団で痛めつけていたなどとは思いもしない。
「それは、どう言う……」
 だがその推測は違った。確たる証拠があるわけではないが、直感的な確信が今のモードルートの中には芽生えていた。
「この村ってさ、ずっと昔から犬人と猫人が争ってきてたんだよね?」
「え、ええ。 でも、村長は平等を目指し共に歩む……」
 仮にも先生である人の言葉を平然と無視しメトは口をはさむ。聞くために彼はこの場に呼ばれたはずなのに、今やその立場は逆転しかかっている。
「『ともにあゆむ?』 そんな事言ってもどうせ犬猫で仲良くしてる人を殴るんだろ?」
「メト君……!」
 人を小馬鹿にしたような態度でメトは茶々を入れた―――と表面上はそう見えるだろう。だがそれと同時にモードルートは自嘲的な意味をも感じ取る。この教師もまた、この村の出身であるが故に、そこから真実を悟るには十分であった。
しかし、それはいささか遅すぎたのだ。
「大人は皆そうだ、きれいな事言っても、何もしてくれないよね」
「それは、しかし……メト君、待ちなさい! メト君!」
 ギギっと椅子を引く音を鳴らして、メトは席を立つ。失望の言葉を担任に浴びせながら。走り去る背中に制止する声が幾度か響いたが、ついに振り向くことは無かった。
あとには呆然と立ち尽くすモードルートが残るばかり。彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、ただメトの行った方を見つめていた。
「……また、何も出来ないのか……?」
静寂に包まれた廊下に、呟く声が微かに響く。それを塗りつぶすかのように、校庭ではしゃぐ子供達の歓声が重なった。その声が一層、モードルートに重くのしかかるのだった。





 自分は変わってしまった。そしてそれに合わせて、周りも変わってしまった。何も不思議な事じゃあない、当たり前の事だ。
 だけど―――
(どうしてこんな事に?)
ここ数週間、何回このフレーズを思った事だろう、そう自分で分かっていながら尚も脳裏によぎってしまう。
 それほどまでに今の状況は特殊であった。この猫人犬人入り乱れての、食卓は。
「ランバート、俺、すっげぇ違和感なんだけど……」
「大丈夫大丈夫。 皆最初はそんなものだよ」
 純白の毛並の犬人に、自分の場違いさを訴えるが、彼は全く意に介さない。とは言え、今までロクに話してこなかった人達に囲まれては、さすがに気持ちも萎縮すると言う物だ。
「そういう問題じゃなくって……」
 周りに居るのはどの子も今まで対立していたグループの子たち。こちらにいぶかしげな表情を向けている子もいるし、品定めでもするかのように目を細めている子も居る。
 もちろん、そんな顔をせずに笑顔で受け入れてくれる人も居るのだが、かえって気遣いをさせているようにも感じ、居心地としては正直針のむしろと言っても差し支えない。

 事の起こりは数分前。担任の先生からの呼び出しから解放され、食堂へと向かおうとしていた時だった。
「メト君、今から食事かい?」
 廊下を歩いているところに、後ろから声をかけて来たのが、このランバート。犬も猫も仲良くしよう、と言う考えの元、種族問わずつるんでいるグループのリーダー的存在だ。
「ああ……ってランバートか」
「冷たいなぁ。 別に君にどうこうしようってわけじゃないよ」
 そういう経緯もあってか、元々仲の悪い派閥に属していたメトは思わず警戒してしまう。もうそんな必要はないのだが。
「そう、だよな……ごめん」
「いいさ、まだ『ワダカマリ』って奴があるのは分かってるよ」
 言われて気が付いたメトがばつの悪そうな顔をすると、ランバートは気にしてない、と首を振る。こちらの置かれている立場や何があったのかは、大体わかっているようだ。
「それより、今からご飯なら一緒にどうだい? ちょうど僕も行くところだったんだ」
「え、ああ、そりゃあいいけど……いいのか?」
 断る理由も特にないし、彼の提案を受け入れる事に抵抗はなかった。むしろ、こちらが一緒でいいのだろうか、とも思ってしまう。
「いいよー食事するなら多い方が楽しいしね」
「そ、そうか? ならいいんだけど……」
 多少気後れはするが、ランバートがそう言うのならば、と一緒に歩き出す。しかし、並んで歩いてみて分かるが、やはり彼の服装は派手だ。真っ白な毛並みを覆い隠すかのように真っ赤なTシャツ、下半身は黄色を主とした縦に緑の縞がはいった短パン……かくれんぼをしたら真っ先に見つかりそうだ。
(相変わらず、すげえ色……)
 声には出さず、そっと心の内だけでそんな事を思う。自分の毛色の事を気にしている彼の事だ、きっと怒ってしまうに違いない。
「どうかした?」
「べ、別に何でも……あ」
が、慌てて視線をそらした先の窓に映る自分たちの姿を見て、メトは自分も異常な事に気づいた。
「そう言えば、君の服、暑くないの?」
 ランバートの言うとおり、自分はこの暑い中、毛皮の露出を避けて長袖長ズボン。周囲は皆暑がって、半そで半ズボンが当たり前だと言うのに。
 そう言えば、先ほどから行き交う人がこちらを見ていると思ったが―――
(見られてたのは、ランバートじゃなくて、俺!?)
「や、やっぱり変かなあ……」
「まぁ……一緒にいて暑苦しくはあるね」
 ハハハ、と冗談めかして彼は笑うが、メトも同じ服装の人が隣に居たら、そう思うに違いなかった。
「うぅ……俺だって暑いけどさ……」
「……そうかー。 ま、無理はしない方がいいよ?」
 だからと言って、脱いだとしても別の意味で視線を集めるだろう。望んでいないのにそうしている意味を知っているのかいないのか、ランバートはその理由を聞いては来なかった。
「ああ、そうするよ」
 分かっていようといまいと、どちらでもいいが、今は聞かれないことに感謝しよう―――そうして彼と一緒に食堂に入ったまでは良かった。
「ランバート君」
「ランバート」
「お、ランバートじゃん」
 が、そこは丁度昼休み、至極当然だが食卓を囲む友人も多く来ているわけで。あっという間に自分たちが着いたテーブルの周りにはランバートのグループの人が座ってしまう。
「じゃあ皆一緒に食べようか」
 本当は1対1でゆっくりと食べたかったのだが、その思いとは逆に、場は賑やかな食事へと変わっていく。席を離れるべきか、とも考えたが、彼の『みんなと一緒に食事ができて嬉しい』と言うような顔を見ていると言いだすこともできず―――
「はぁ……」
 そうして、流されるまま今に至る。これが、元のグループであったなら物怖じせずに話出来たのだろうけれど。委縮した気分は直らず、こちらの立場を気遣って話題を振られてもしどろもどろになって「ああ」、とか「うん」、ぐらいしか返せていなかった。これでは溜息の一つも出ようと言う物だ。
「ねぇ、あの話聞いたー?」
「うん、知ってるー。 すごいよねー」
「えー? 何? テレビ?」
 周りは楽しそうに食事をしながら会話をしていると言うのに、一人だけここに馴染めていない違和感。果たして、自分はここに居ていいのだろうか。
「ところでなんでメトが居るの?」
「……!」
 そう思った矢先に飛んできた、根本的な疑問。その口調にはこちらを責めようと言う意図は見えない、そのはずなのに―――体は強張ってしまった。
「……それは」
「僕が誘ったんだよ。 たまにはいいじゃないかと思ってね」
「そうなんふぁー」
 どう答えよう、とうろたえるよりも早く、ランバートが答えてくれた。半分折れた耳のクラスメートは納得したのか、間延びした声を出しながらフォークを口元にくわえている。
(……やっぱり、居たら悪いのかな)
 その男の子が発した疑問は、あくまで単なる好奇心から来た言葉であったが、メトにはそうとは受け止められなかった。自分はこの輪にそぐわない奴で、彼らはそれに対して排除しようと思っている、したがっている―――。
 一度考え始めてしまうと、もう止まらない。
「うっ……」
 体の強張りが解けることはなく、食事の手はネガティブに進む意識とは逆に止まってしまう。箸を持つ手は震え、空腹を訴えていた胃は、いつの間にか何かがこみ上げてきそうな不快感にあふれていた。
「ね、ねぇ、大丈夫?」
「どうしたの……?」
 メトの心を知る由もない周囲は、突如呻いてうつむいた彼を体調が悪いものと心配し始めた。周囲の声に大丈夫、と震える手を挙げては見るが、声は出ない。体調が悪い、と言う訴えにも見えるだろう。
「……メト君?」
「どうした? どっか悪いのか?」
 ざわめきはやがて卓の外にも広がり始め、通りがかった生徒までもが覗き込んでくる。
「だ、大丈夫……ちょっと、気分が悪いだけ」
 ようやく絞り出した声も、かすれていて周囲に届いていたかどうか怪しい。ただ、隣に居る子には伝わったらしく、こちらの顔を覗き込みつつも、背中をさすってくれる。
「本当に? 保健室行こうか?」
「そうする……」
 この場を離れる、と決めると少しばかり声が大きくなった。どうしてだろう、と思う間も挟まず、メトはふらふらと立ち上がる。食事は、まだトレーに半分以上残っていた。
「ごめん、ランバート……せっかく誘ってくれたのに」
「いや、いいよ……本当に大丈夫かい?」
 笑って言ってくれているが、その顔には心配の色が容易に見て取れる。それを申し訳なく思いながら、メトは重くうなずく。とりあえず今は、真っ先にここを離れたかった。
「保健係は、サリナだったよね」
「うん、メト君、一緒に行こう?」
「え、あ……ああ、ありがとう」
 背中をさすっていてくれた子が付き添おうと遅れて立ち上がる。正直、一人で大丈夫だと思うし、その方が都合がよいのだが。しかしここで断ると言うのも気が引けて、口には出さない。
「ごめん、食事の途中なのに」
 彼女のトレーにもまだ食事が残っているのが、視界の端に映った。楽しい食事を邪魔してしまった―――そんな罪悪感までが湧き出、心を責めたてる。
「いいの、それよりもほら、早く行こう?」
 だが、その事を彼女は気に留める様子もなく、人の囲いを空け、道を作ってくれた。メトは内心感謝しながらも黙ってうなずき、後を付いて行く。
 食卓に残された人々は少し呆然としながらも、口々に彼の身を案じて呟いていたが、間もなく先ほどと同じような、活気のある食卓へと戻っていった。もちろん、中には批判的な人も居たが、それはまた別の話。





 食堂から少し離れて、校舎内1階男子トイレ。表では、サリナが壁にもたれながらメトを待っている。時折心配げに中の様子をうかがおうとするが、場所柄どうにもしづらいらしく、人が通りかかるたびに恥ずかしそうにそっぽを向いている。
 そして、
「う、おげぇええええっ!」
ほどなく中から響いてくるのはうめき声と、びちゃびちゃと何か落ちる音。何か、など確かめる必要もない。分かってはいるが、さすがにサリナも眉をひそめた。
「メト君、大丈夫ー……?」
 恐る恐る、中に向かって声をかけるが、返事はない。代わりに聞こえてくるのは、荒い息の音だけだ。少し遅れて、水洗トイレの流れる音もする。
「ね、ねぇ……」
 思い切って中を見てみると、うつむきながらこちらへ向かってくる彼の姿があった。もしも動けなかったら、と恐れていたが、それほど酷くはないようだ。ひとまずほっとして、水道の蛇口をひねるメトから視線をそらし、壁にもたれかかる。
「……大丈夫?」
「ああ、なんとか」
「そう……?」
 ほどなくトイレから出てきたメトは、笑顔を向けて返事してくれたものの、耳は伏せたままだ。こちらにしてみればあまり良くなったようには見えない。
「付き合せてごめん、俺、先に教室戻るよ」
「え、ちょ、ちょっと待って!」
 まるで避けるかのように背を向けた彼に、追いすがってサリナはその手をつかむ。このまま行かせてはいけないような、そんな気がした。
「……大丈夫だってば」
「でも、でも……」
 足は止めたものの、これ以上問答する気はないようだ。振り向きもせず帰ってきた言葉は、どこかうっとうしそうですらある。
「……心配してくれてありがとな」
 尚も手を離さずにいると、メトの方から手を払い、サリナの方へと苦笑しつつも向き直った。そのさびしそうな笑顔が、余計に心に引っかかる事など、きっと思いもよらないのだろう。
「それじゃ、また後で」
「あ……」
 再び歩き出そうとする彼を、このまま行かせていいとは思えないが、止めることができそうな理由は考え付かなくて。だから、この動きは思わずと言うか反射的と言うか本能的なものと言うか―――
「いででででっ!? ちょっ、痛いって!」
 とにかく、サリナは目の前の背中に追いすがり、その耳を思いっきり引っ張ってしまった。気づけば痛みに悶絶するメトの後ろ頭が鼻先にある。
「ご、ごめんなさい! でも、もうちょっとごめん!」
「な、なんだよ!? なんだよ一体!?」
 耳をつままれて体をよじることもできず、ただのけ反るような体勢。体操の時間でもないのにそんな辛そうな姿勢を取らせつつ、つまんだ耳の内側に目をやる。周囲から奇異の目線で見られているが最早気にならない。
「やっぱり」
「あっつつ……な、何が?」
 つまんでいた手を離され、耳を痛そうに押さえながらメトはこちらへ向き直る。もちろん、恨みがましい視線も一緒だ。しかし、サリナは怯むどころか逆に詰め寄った。
「耳んとこ、真っ白。 調子、悪いんでしょ」
 人が感情の動きや、体調を外面から計るのは耳の内側から、即ち、毛皮が薄く皮膚の色が見て取れる場所である。普通であれば多少の差はあれど赤みを帯びて、ピンク色になっているはずだが、今しがた確かめたそれは、真っ白だった。
「へ、いや、毛で真っ白なんじゃ?」
「皮の方!」
「……まだ、本調子じゃないんだよ」
 乱れた耳の毛並みを整えながら、メトは心配のし過ぎだと言わんばかりに微笑む。
「でも……」
「ほら俺、今日の体育も見学だったしさ」
「そうだったけど……」
「心配、し過ぎ」
 どうしても、何かおかしい。眼前で呆れたように笑う彼は、本当に10日前ぐらいまで快活に笑っていた、メトなのか? 一見して違いが分かるわけではないけれど、どこかが違うと、心が訴えている。果たしてそれは、病み上がりだからという理由だけなのか、自分には分からなかった。
「ねえ……君は、本当に……メト君、だよね?」
「はぁ?」
 分からないままでいるのは嫌、と直感の従うまま口にしたのは、突拍子もない疑問。もちろん返ってきたのは、何を言っているんだと言わんばかりの反応だが。
「当たり前だろ?」
そう……だよね、うん、ごめん、何言ってんだろあたし」
呆れを通り越して、困惑さえその表情には見て取れる。これ以上触れて、いいのだろうか? 一欠片の迷いがサリナを踏み止まらせた。しかし、今しか彼に聞く事は―――
「あ、の……」
「俺……変わったか?」
思いを固める前に、言葉にならぬ言葉を求めて、背を向けかけていた彼を引きとめようと、した。けれども言葉が固まる前に、彼は、メトは、またあの寂しげな笑顔を見せて、逆に問いかけられてしまった。
「……」
何か言うことが、あるはずだったのに何も言えない。ただ短く、感じたままにサリナは首を小さく縦に振った。
「そっか……そう、だよなあ」
一人納得したかのように、メトは頭を掻いて苦笑した。何を考えて、何に納得したのだろうか、サリナは置いていかれるばかりだ。
「ごめんな」
なぜ彼が謝るのかも分からないけど、一つだけ今分かる事がある。自分は、今の彼に何も出来ないのだと。今度こそ背を向けて離れて行く同級生の背中を見つめながら、諦め―――
「あの、ねっ、メト君! 私、何か悩みあったら、聞くから!」
られなかった。最後の意地とでも言うべき叫びが廊下を伝わっていく。応えるように、ポケットに突っ込んでいた右手を彼は挙げる。どんな顔をしてるのか、確かめる気は起きなかった。ただじっと立ったまま、人ごみに紛れて見えなくなる彼の背中を、サリナは見つめていた。





 それが何のきっかけで始まったのか、よく覚えていない。ただ、些細な事だったことだけは確かな事だ。帰ろうとするメトの背中に、野次を飛ばした人が居たこと、そしてそれを咎めた人が居て、言い争いが始まったことは覚えてる。
 だけど今、そんな記憶はどうでも良いと言わんばかりに
「どうじでみんなげんがずるのお!?」
教室は泣き声が響き渡っている。……仲裁に入った委員長だ。最早言い争いは無意味と強制終了を喰らった彼らは、先ほどまでの光景が嘘のように彼女をなだめすかしにかかっている。そのパターンが分かっているなら、委員長が居る時に絡まなければよかったのに。
「あーあ……」
 いつの間にか『原因』であったはずのメトは置き去りにされ、遠巻きに苦笑を浮かべている。さっきまで自分のせいで、と思い詰めた顔をしていたからそこはナイスフォローだよ委員長。だけど、いつまでもここにいても良いことはないだろう。僕はメトの季節外れの長そでをそっとつかんで引っ張った。教室から逃げよう、と言う合図だ。
「メト、今の内に出よう?」
 この泣き声が響く中、僕の小声が届いたかどうかは分からないけれど、すぐに彼は笑って頷くと、委員長を取り巻く人々を横目に人の輪を抜け出した。
目指すは開きっぱなしの教室のドア、見るからに人々の注目は彼女に集まっており、こちらへの目線など一つもあるように見えない。姿勢を低くし、机の影を隠れるようにこそこそと外へ出ていく。二人そろってやっていることがまるで泥棒みたいだ。
「……何も悪いことしてないのに」
 そんな状況に嫌気が差して、つい言葉に出てしまう。誰も聞く人はいないけれど。
「ああ……やっと出れた、疲れたぜ全く」
「……そうだね」
 メトはこの状況が不満でないのだろうか? 気にしていない風の彼に改めて聞くことは、少し怖い。
「レコ?」
「え? メぉおっ!?」
深く考え過ぎてか、目の前が見えていなかった。話しかけられた時にはもう階段が目の前で、危うく踏み外しかかるところだった。
「どした? ぼーっとして」
「ご、ごめん。 ちょっと考え事……」
「お前も?」
「あれ? 君も?」
「ああ……ちょっとな」
僕と似たような反応だ。あまり話したくないような事だろうか?
「そっか」
お互いの考えに触れることなく、流すように僕は彼に先んじて階段を駆け下りる。だが、
「待ってくれ!」
追ってくる足音は続かず、叫びだけが飛んできた。僕は即座に向き直ると今下りてきた階段を三段飛ばしで駆け上がる。
「どうしたの? どっか痛い?」
聞きながら僕は、その考えが的外れである事に気付いた。口を閉ざしたまま首を振る彼は、こちらを見ずに、昇降口とは反対方向、上りへの階段を見つめている。もちろん、そっちは僕らの教室でもないし、今日授業を受けた階ではない。
「……行くの? ロクなことにならないって言ってたけど」
思い当たりは一つ、朝方メトの机に紛れていた紙切れ。あれで誰が呼び出したのかはわからないけれど、放置するはずだったのに。
「そう、そうなんだけどさ……無視しても結局、誰だか知らない奴を怒らせてロクなことにならないんだよなって思ってさ」
「それは……」
「行けば、もしかしたらそいつらと話し合えるかもしれない。お前言ってたよな、また、ライル達と仲良くできるかもって」
確かに言ったけど、それはもっと時間が必要なんじゃないか? 今すぐどうこうできるようなものじゃないと、僕は考えていた。控えめに見ても楽観的な話だ、でも……
「誰が来るかも、何が起こるかも分からないのに、それでも?」
「行く……行かなきゃいけない気がする」
焦り、不安、後悔、きっとないまぜになった心の内が苦しいのだろう。さっきまでの彼からは考えられないくらい、表情には余裕が無い。ここで止めてもきっと一人で行ってしまうだろう。そんな確信を持てるぐらいには、彼を分かっているつもりだ。
「仕方ないなあ、僕も一緒に行くよ」
「レコも? 危なくないか?」
「それ、君に言われたくないよ?」
 危ない中に自分から飛び込んでいこうとしてるのはメトなのに、僕が同行しようとすると良い顔をしない。自分は傷ついても良いなんて、思ってもらっては困る。
 それは、僕の役目だ。
「う、そ、そうだな……正直、助かるよ。 一人だと不安だったし」
「けど、危なくなったらすぐに帰るからね」
困ったように頭をかく彼に、クギを刺すことは忘れない。守る事だけを考えて行こう、出来れば誰も怪我しない様に。
「でも、本当に誰が呼び出したんだろうね」
「ニルバ達の内の誰か……だと思うけど」
 おっかなびっくり、と言うのか、メトの階段を昇る足取りは内面を映すように重い。後押しするように僕は続き、他の誰かが昇ってこないかちらちらと後ろを見る。誰も来ていない、耳に届く範囲の物音からは来る気配すらない。そうして前を見ていなかったからだろうか、
「やあ、待っていたよ」
 頭上の気配に全く気付けなかったのは。身構えていた僕たちにとって異質な、敵意のない歓迎の言葉。
「!!」
「ラ、ランバート……」
 僕らは動揺を隠すこともできず、踊り場から見下ろす純白の犬人を見上げていた。悪意を感じさせることもなく、微笑む姿に何故か言いようの知れぬ不安を感じる。乱暴をしてくるような人ではないと、知っている。彼は犬人も猫人も関係なく、仲良くしようと言う人だ。なのに、何故?
「何だ、お前が呼び出したのかよ?」
「まぁまぁ、立ち話も何だから出よう出よう」
 ランバートが居たことに安心したのか、メトが警戒する様子もなく促されるまま屋上へと出て行こうとする。一方の僕は妙な胸騒ぎに囚われ、待ってとも言い出せず足取りは重いままだ。改めて後ろを振り返るも、やはり、誰もいない。誰も、新たに加わる人は、いない。まさか
「なにこれ」
「メト?」
 呆然としたような、小さな呟きが前から届く。続けて目に入る、開け放たれた屋上への扉の前で立ち尽くす人影。追いついたその横から目的地を覗いてみる。
 正面にランバート、だけなら良かったのに、遅すぎた予想は当たらずとも遠からじ、と言ったところで―――つまり、何人か待ち構えていると言うのは最初から考えていたんだけど―――
「多すぎ、でしょ」
 屋上入って右手にはニルバをはじめとしたメトの元居たグループが5人。左手にはランバートたちのグループが同じく5人。どう考えたって僕と言う異物が居るにせよ、二人に対して出迎える数じゃあない。
「さ、こっちだよ」
 にらみ合うグループ同士の一触即発な雰囲気の中、空気にそぐわない軽い声が聞こえる。ランバートだ。視界の端に、呆然と開けていた口をぎゅっと結び体をこわばらせる様子が映る。
(本当に行くの?)
 慌ててその腕をつかみ、制止を促すが、彼は微かに横に首を振ると、踏み出して行った。
「……ああ、もう、覚悟しちゃってるんだっけ」
 僕は、君が傷つくことを覚悟なんて、したくないんだけどな。
 言葉を胸にしまい、僕もまた後へ続く。奇異な物を見る目線が幾重にも届いてくるのがすぐに分かった。


続く



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