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誰かを得た時、それは同時に誰かを失う時をも得たことになる。それは自然な事、だから誰が僕の前を過ぎ去って行っても、『ふつう』で居られるようにしよう―――あの時、そう思ったはずだった。 だけど、触れてしまった人が温かくて、手放したくなくて―――僕の決意は、なんて脆いんだろう。嘲笑うように、触れた手はやっぱり温かい。 だから、失いたくない。失いたくないんだ。他に何かを失くすとしても。 9.決裂 夕日が校舎を赤々と照らしている。暑かった日差しも今日はもう最後、緩やかに空気は冷えて、過ごしやすくなるだろう。それに呼応するかのようにはしゃぎまわっていた子供達の動きもゆったりで、方々に帰路へとついて行く。 もっともその日常を全ての人が享受できるとは限らない、緊張感を孕んだ屋上にいる面々もそんな日常から切り離されて、今ここに居る。 「ええっと……何か、用?」 まず口を開いたのはメト、呼び出されたと思えば10人に囲まれ、理解の追いついていない頭から絞り出されたのは、余りに月並みな言葉だった。だがそれも当然と言えよう。 「何か用だから呼び出した、分かっているからここに来た、そうだろう? メト?」 応えるのはニルバ、いつもの外面の良さはどこへやら、不機嫌を隠そうともせず威圧感が溢れている。 「まぁまぁ、人がこんなにいるとは思わなかったんだよ、少しぐらい許してあげなきゃ」 対照的にそれをなだめにかかるのはランバート。双方ともそれぞれ対立するグループのまとめ役であるが、彼のニルバへの態度はそうとは思えないほど気軽な物だ。 「お、おう、こっちはわけわかんねーでこっち来てるんだからさ、か、考えてくれよな」 ニルバの威圧に飲まれてなるものかと、虚勢ではあるがランバートの助け船を得てメトは強気に出てみた。改めて見渡してみるが、本当になんでこんなに集まっているのか理解できない。向かって右……ニルバ側にはクィード、スアト、エフィオ、ラーデ。対して左のランバート側にはトマシ、シャオック、サリナ、ガヴェル。 「……調子に乗るなよ」 「まぁまぁ、こんな調子だし、ささっと本題に入ろうか」 「……おう」 どうも態度が癪に障ったらしく、ニルバの眉が更につりあがったのをメトは見逃さなかった。だがむしろ、彼の不機嫌を増加させてるのはなだめようとしているランバートのようにも思えたが。 「ハッキリ言おう。 君が欲しい」 「は?」 言葉を聞き逃したつもりはなかったが、反射的にメトの口は開いてしまった。 「え?」 思わず後ろのレコに助けを求めるような目を向ける。状況に対してミスマッチすぎる言葉に理解がまるで追いついていない。 「……ランバート君のグループに入れって事?」 「そういう事」 怪訝そうな顔をしつつもレコは混乱した友に代わって聞き返す。 (な、なんだ……) 欲しいの意味を深読みしすぎたか、ピンと張った黒い耳を折りつつ、メトは一人心の中で胸をなでおろす。 「そういう事、か……」 「ちなみにニルバ達も同じ目的らしいよ?」 「何……?」 「同じじゃない、別だ。 お前は入れ、俺達は戻れ、違う奴だ」 不快感を露わにしながら、ニルバが口を挟む。その場に居た全員があまり変わらない話だと思っただろうが、それを口に出す人物は居ない。どういう結果を生むか誰も分かっているからだ。 「それでわざわざ呼び出して、俺に選ばせようってのか? 直接俺に言いに来ればいいじゃん、コーヘーセーって奴?」 わざわざ事を大きくしているのが理解できず、疑問が自然に口をついて出る。 「ま、公平ってのはあながち間違ってないね」 「選ぶ、と言う点では少し違うな、既に決まっている物を選ぶ必要などない」 うんうん、とうなずきを返すランバートに対し、決まりきっている、と断言するニルバ。 「……」 その自信に満ちた言葉に不自然な物を感じたのはレコだけだった。 「冗談きついぜニルバ、今更仲良くしようとか都合良すぎだろ?」 「さて、そうかな?」 当然メトはそんな気は無いと肩をすくめて首を振って見せる。だが、分かっていたと言わんばかりにニルバは冷たい笑みを浮かべて一歩引いて見せた。その影から、見慣れた赤毛が進み出てくる。かつて、いやほんのこの前まで友だった者が。 「メト」 「クィード」 「友達のお願い、とあらばまぁ聞かざるを得ないかな」 奥歯を噛みしめる音が周りに漏れ出ていないだろうか、そんな事を、メトは思う。茶化すようなニルバを横目に、クィードはずいとさらに前に出る。 「戻ってこい」 絞り出したかのように掠れたその声には、怒りも蔑みも含まれていない。メトの目の前までやってきたその顔は、懇願するようにも見えて、内心の罪悪感を容赦なく刺激してくる。 「……あれだけ殴っておいて、よく言うよ」 「殴られるようなことをしたのが、悪いんだろ」 憎まれ口に憎まれ口が返ってくる。 (ああ、そうだ、コイツとはこういう仲だったっけ――) 少し前まではこうして笑い合えていた事を思い出し、再びそんなやり取りをできたことに、自分の頬が緩むのをメトは感じた。 「変わってないな」 「そりゃあな」 ふん、と鼻を鳴らすのは何も変わっていない彼、だからこそ安堵する。だからこそ――― 「……」 銀髪を揺らし、物言わず見守るだけのレコを振り返る。このまま戻ることを選べば、きっと彼はメトを送り出すだろう。寂しそうに微笑んで。 しかし、クィードがもし、変わってくれるのならば−−−希望はあった。 「なぁ、もし、戻れるんだとしたら……レコとは……」 友達のままでいいか、と、二の句が継げられることはなく。 「はぁ? 何言ってんだよ、あいつは友達じゃないだろ?」 あまりにも淡泊で、あまりにも当たり前と言わんばかりの反応は、彼が抱いた一縷の望みをかき消すには、十分すぎた。 「やっぱり、変わってないな……」 「……メト?」 「ごめんなクィード、やっぱり俺、そっちに行けない」 自分が変われたから、と人にも期待する。しかしその期待は所詮自分の押し付けでしかなかったとメトは痛感した。 失望、と言うには身勝手だと分かっていても、メトはその悲しみを深く表情に映し出す。 「まだそんな事を! 目を覚ませよ!」 もちろん、その主張を黙って受け入れてくれるクィードではなく、たちまち怒りに目を吊り上げて怒鳴り散らし始めた。今にもメトに手を上げそうな雰囲気に一気にランバート達がどよめき出す。 「目ならとっくに覚めてるよ」 「なら、なんでだよ!」 「メト!」 そして彼らが行動するよりも早くメトは胸倉を捕まれ、クィードの側に引き寄せられる。 「お前こそなんでだよ!」 鋭い声を飛ばした背後を片手で制しながら、目の前に居る耳まで赤く染めた犬人に叫び返す。 「お前、変だと思わないのかよ! 人が誰かと仲良くなるのに種族とか、誰かが嫌いだとか関係ないだろ!? お前も感じてるはずだろ!?」 「黙れ裏切り者がぁ!」 それは彼にだけでなく、その場にいる全員への訴えかけ。しかし言葉は届かず、クィードの左手が拳の形に握りこまれる。そして振り上げられた拳はためらわれる事なく振り下ろされる。怒りのままに。 (何でだ? 何で分かってくれないんだ!? コイツの好きな人だって−−−) 防ぐ事も出来ず、殴られる事を覚悟した瞬間、 「やめて!」 空気を切り裂く声に、目標の鼻先ほんの数センチの所で拳が止まった。その隙に腕を振りほどくと、ゆっくりとメトは後ろへ下がる。そんな彼を迎え入れるようにレコが肩を抱く。 「お前……」 一瞬、クィードは呆気にとられたような表情をして見せたが、すぐさま怒りに、憎々しげに顔をゆがめていく。ターゲットがメトでなくなったのは、周囲もすぐに分かっただろう。 しかし、 「お前さえ……お前さえいなければぁ!」 「どうどう、どうどう」 「まだ早い、まだ早いよー」 却って火に油を注いだかのようにクィードは激しく燃え上がる。体格のいいスアトとラーデ、二人に抑え込まれて尚その怒りが静まる気配はない。牙を剥き、飛びかからんばかりの怒気に困惑を隠し切れず、メトはその向かう先を見た。 「クィード君……」 だが、その横顔からは恐れなどは見られない、ただ哀しそうに、まっすぐ赤毛の彼を見つめていた。そんな顔をしてもらうために、ここに来たわけではないというのに。 「くそ……」 嘆きを抑え、クィードの視線を遮るように半身をレコの前に出す。この場を上手く収められるような方法があるわけでもないが、メトには決意があった。 「俺が……やらなくちゃ」 「何してんだよおまえぇ!」 己が無力を噛みしめながら、それでも彼は前に出ずにはいられない。どうすればいいのかなんて分からないけど、『しなくちゃいけないこと』は分かっているつもりだった。 「フフッ……守り、守られて美しい友情ごっこかい?」 「何?」 一触即発、膨れ上がる緊張感を無視したかのように、嘲笑が降りかかる。あえて空気を読まず、むしろ空気を凍てつかせるように振る舞うことが出来るのは力を持つ者だけ、即ち、ニルバだ。 「いやいや、いいんじゃないか? 自分が何と付き合ってるかも知らずに、騙されてる姿ってのも面白みがありそうだ」 「お前、一体何を言ってる?」 嘲りをその表情にありありと浮かべながら、頭一つも身長が違う犬人が再び二人に迫ってくる。 (騙される? 知らない? 俺が……何だって?) 何故かは分からないが、心臓が早鐘を打つのをメトは感じる。それが彼らに伝わらないか、不安になるくらいに。 「分からないか? 人が折角親切で騙されてる事を教えてやってるのに、なあ?」 わざとらしく溜息を吐きながら、見上げられるほど迫っていた彼はやおら振り向いた。 「お前が教えてやれよ、クィード」 「……おう」 ニルバが前に出たことで勢いが削がれていたのか、抑え込まれていたクィードはいつの間にやら自由になっていた。二人は意味ありげな視線を交わすと、同じような意地の悪い―――いや『勝ち誇った』笑みを浮かべる。 「メト、考え直す最後のチャンスをやるよ」 まるで伝染したかのようにそっくりの笑い方は、『見下した対象』の気分を害するには十分だった。 「何考えてんだかわかんねーけどよ、何を言おうがお前らの所に戻るもんかよ」 その顔に明確に現れたのは、嫌悪。心の底から冷えていく物をメトは感じながら、吐き捨てる。 「……お前そいつが本当にただの猫人だと思ってんのか?」 「はぁ? ただのって何だよ、猫人の友達に決まってんだろ!」 そう言う意味じゃない、と言いたげなクィードは果たして声に出さず、軽く流すように先に進める。 「……そうだろうな、今はな。 でもそうじゃない、お前の横に居るそいつは、猫人じゃない」 「何……? どういう意味だ? レコが、猫人じゃないって? どう見ても―――」 冗談にしてもバカな事を言う、と一笑に付すことは、出来なかった。傍らの彼自身が、悲しい顔をしていたから。 「見た目は猫人だけどな、でもそいつは他の血が混じってる」 「……イレギュレンス……」 はっとした表情でランバートが呟いた瞬間、今度は全体でどよめきが起こる。それは、グループの枠など関係なく全体へ動揺をもたらした。 「血混じりなんだよそいつは」 それがどういう意味を持つのか、メトには分からない。それでも周りの反応からそれが悪い意味を持つことは容易に感じ取れた。 「血混じりがいるなんて聞いてないぞ……」 「俺たちを騙してたのか?」 怯える声、怒りの声、先ほどまで固唾を飲んで見守っていた彼らはにわかに騒がしくなった。嫌な空気が膨れ上がっていく事を皆が感じている中、メトは俯いているレコの肩をぽんぽんと叩く。 「大丈夫だ、レコ」 「……」 彼は一瞬だけ目を交わしたが、勇気付けようと言う目論見とは反対に、すぐに申し訳なさそうに視線逸らしてしまう。 「俺は、いや『俺達』は知ってる、そいつは猫人なんかじゃあない」 「……」 かつての友達が今の友達を得意げに貶める。そんな不愉快な光景をメトは見たかったわけではない。見続けていたいわけもない。 「そいつは猫人の皮を被ってお前を騙した卑怯な奴なんだよ」 しかしクィードは言わなければ収まらない、他の誰でもなく、メトが聞かなければ、止まらないのだろう。 「……それで?」 しかし当の本人は話の内容にさして興味はなかった。先を促すために口をついて出た言葉は、彼自身でも驚くぐらい淡白で、 「お前、本当にわかってんのか!?」 クィードの不満を煽るには十分な反応だった。 「そいつはなあ! バ……」 「やめて!!」 苛立ちに任せて何かを言おうとしたところで、再びレコの叫びが妨害する。 「やめろレコ、今出てきたら……」 「お願い、クィード君、それ以上は言わないで」 メトの制止も聞かず、いつになく必死な様子は誰が見てもレコ自身に都合が悪いものだと、そう考えるだろう。実際クィードにもそう見えたのだから。 「ハッ! 我慢できなくて出てきたってもう遅えんだよ!」 「違う! ダメだよ、後戻りできなくなる!」 自分は間違っていないと言う確信が、クィードにはあった。だから負けているはずのレコの言う事など聞く必要もない。 「うるせえよこのバケモノが!!」 悲しい事に彼はそう、信じていた。決して埋まらない亀裂を、最後に自分が生み出すはずがないと−−− * 「バケ、モノ?」 血の気が引くって、こう言う感覚なのか。突拍子もないその単語が悪意を持ってレコに向けられているなどと、にわかには信じられなかった。 「お前が俺に指図……」 呆然とレコを振り返り、もう一度クィードを見る。自分が何を言ったのか、分かっていない彼に。 「な、何だよお前ら」 二人ともおそらく同じ顔をしていたのだろう。その表情の理由は違えど、悲しみによるものには違いなかった。 「おい、まさか、まだそのバケモノをかばうのかよ?」 やはり、クィードにはその理由が分からないのだ。友達だったのに、俺の心が、今どうしようもなく痛いのは、分からないのだ。ひどく気持ちが悪い、胸がムカムカする。 「だってそいつは……」 「もういい」 絞り出した声は、掠れていたし、震えていた。 「聞きたくない、それ以上、お前の口から」 それだけを言うのが、その時の俺にはやっとだった。 「う、ぐ、うえぅ……うぇえ……」 気持ち悪さと悲しみとないまぜになって、腹からこみ上げてくる衝動に抗う術もないまま、ただ嘔吐する。途端に周りで悲鳴が起こった気がしたがどうも遠い世界の出来事にしか思えなかった。 何も聞きたくなかった。 誰も傷つけたくなかった、そのために少しでも話せればと思ったのに。 そうすれば俺も、傷つかずに済むと思ったのに。 「ちくしょう……」 ままならぬ悔しさが半ば無意識のうちに漏れていた。そして、滲む視界に差し出された赤い手を、俺は払いのけていた。 * そのパシっと乾いた音は、拒絶、あるいは決裂を表すかのように不自然に響き渡った。 「メ、ト……」 振り払われた手を信じられないとでも言いたげに見つめるクィード君は、ここに至ってもまだ自分が受け入れられると思っていたのだろうか。 「どいて」 だが彼に構っている暇はない。文字通り膝から崩折れた彼を支えなくてはならないのだから。 幸か不幸か、僕が近くにいるおかげで拒絶された彼以外は近づこうとしてこない。 「メト、いける?」 「……」 かろうじて呼びかけには応えられるが、その目は既に虚ろだ。本当ならすぐにでも離れて休ませてあげたいところだが、 「お前、なんでだよ……」 やはり簡単に逃してはくれないみたいだ。困惑にその顔を染めながらも、クィード君は諦めていなかった。 「なんで、バケモノのお前はよくて、なんで俺はダメなんだよ!!」 だからそれがいけないと言うのに、何故彼は分からないんだ。肩で震えるメトの息遣いを感じながら、僕の心の中はかつて感じたことがないほどに怒りを覚えていた。 「……これ以上メトを傷つけないで、クィード君」 「傷つ……? お前がそもそもの原因じゃねえかよ!」 あくまで穏やかに、と言う希望とは裏腹に怒りが膨れ上がるのを感じる。僕にも、彼にも。 「そうかもしれない、けど今君の言葉からメトは傷つけられたんだよ?」 「はぁ!? そんなわけがあるかよ! 俺は……!」 「……」 かすかに持ち上がった、メトの頭、近すぎてその表情までは僕の髪で隠れてしまっている。 「あ……」 どんな表情を見たのか分からないけれど、クィード君は、目を見開き、口も閉じられないぐらいの衝撃を受けている。改めて拒絶されるのは、辛いだろうに。 「俺は……そんな、いや、俺は……」 「……かわいそうな人」 きっと正しい事だと思ったんだろう、間違っていないと、メトを救えると。あまりにも一途すぎて、全ては空回ってしまった。それを考えるに、哀れとしか言いようがない。 「かわい、そう? 俺が?」 「そうだね」 「お前が、それを言うのか、お前がぁ!!」 まるで泣き叫ぶかのようなヒステリックな絶叫が、僕の耳をつんざく。少し遅れて、頬に痛みと衝撃がやってきた。 「い……っ!」 瞬間的に踏ん張り、かろうじて踏みとどまるも、それで攻撃が止むわけではない。首を戻したところに続けざまに拳が迫ってくる。 「全部お前のせいなんだよぉ! お前、俺から奪っておいてぇ!!」 右頬、左頬と打たれながら、僕は考えていた。彼の言う通りかもしれない、僕とメトが出会わなければ、彼もまた悲しまずに済んだのかもしれないと。 「それでも……!」 でもだからって今傷ついていく友達を見過ごせない。これ以上悲しませたりするものか。 「お前なんかに、お前なんかに! 離れろよぉ!」 口の中で血の味がする。衝撃に頭がクラクラする。でも、この腕は離さない、怯えたように震える彼の、僕は今唯一つの拠り所なんだから。 「死んじまえ!! お前なんか死んじまえ!!」 思い切り振り上げた腕が、頭上に迫っていた。この嵐、どうすれば切り抜けられる? しかし答えが出るより早く、その暴力が届くよりも速く、思いもがけぬ方向から衝撃が来た。 「えーーー」 突き飛ばされた? 誰に? 横から? 殴られても倒れることのなかった僕の体は一瞬宙に浮き、尻餅をつく。二人ではなく、一人だけで。 「な……にしてんだ……」 僕の目の前で、振り下ろされた拳は空を切り、そこに留まっていた。それを食い止め、噛み付いたメトと共に。 「やりやがった……!!」 「噛みつきやがったアイツ!!」 周囲から再びどよめきが起きる。それは僕が血混じりである事を知らされた時並みに大きい。信じられないものを見た、その気持ちは僕も一緒だ。 「おま、え……」 噛みつきは幼い頃から教えられて来た、ケンカにおける禁じ手みたいなものだ。使えば不名誉な仇名を受け、長く蔑まれる事は間違いない。 それでもその手段を取ると言うことは、他の何かをなげうってでも、拒絶を示したかった場合と言うのが普通だ。 彼はそれをしたのだ、僕を守るために。 「そうかよ……そうなのかよ」 そしてようやく、クィード君は、その意思を−−−拒絶されたと言う事実を受け入れた。怒気がしぼんで行くのを見届けると、メトはゆっくりと口を開け、その手を解放した。ぽたりと地面に落ちた雫が、赤黒い染みを作る。 「……」 少しだけ間を置いて、だけれども何の言葉もなく、二人とも互いに背中を向けた。先ほどまでの嵐が嘘のように静まり返った中で、メトは僕を助け起こし、申し訳なさそうに頬に触れる。 「ごめんな」 「ううん」 僕には、それだけしか言えなかった。他に、何を言えば良かったのだろうか。それで彼の心の傷が癒されるのだろうか。 僕は−−− 「行こう」 「え、でも……」 集まった人たちとメトの顔を交互に見比べる。けれども彼は、決して後ろを振り向こうとしなかった。僕だけを、見つめていた。 「行こうか」 「う、ん」 もう一度促されて、僕はその背中を追った。今までの全てを失った彼を、繋ぎ止めるために。 * 二人がその場を後にしても、誰も追おうとはしなかった。ただ、皆の視線は扉へと注がれているだけだった。 「……仲良しこよしが好きな君たちは、追わないのかい?」 メト達を引き入れるかどうかボソボソと囁き合うランバート達に、ニルバが問いかける。それは勝ち誇った嫌味というよりは若干呆れの混じったものであったが。 「それは……」 「そうだよランバート君、メト君も具合悪そうだし、レコ君だって殴られてたし、保健室に連れて行かなきゃ」 「でも、あいつは……イレギュレンスなんだろ?」 「それに、メトも人に噛み付くなんて最悪だろ」 「でも……」 同じグループでも、立て続けに想定外の事が起こったからか、その意思は既にバラバラになりつつあった。唯一二人を庇ったサリナでさえ、噛み付いた事を指摘されると返す言葉を失ってしまう。 「どうするんだ?」 結論を急がせるように、ニルバはもう一度問う。その答えが直ぐには返せない事を確信していたが。 「……もちろん、助けるさ」 十秒近い沈黙の後、ランバートはようやく口を開いた。緊張した始まりの場にあって尚崩さなかった笑顔はとうの昔に失せている。 「でも、ランバート……オレ……」 「分かっているよ、トマシ。 僕と……サリナだけで行く、君たちは先に帰っててくれ」 難色を示す三人を付き合わせるのには無理があると判断したか、目配せをするとすぐに彼はサリナと先に走り出す。 「あっ、おいちょっと! ランバート!」 「まま、待ってちょうだいよ!」 残された三人も置いていかれてはたまらんとすぐさまその後を追う。ドタドタと騒々しく、彼らも消え、残るはニルバ達だけ。 「良いのか、みんな行かせちまって?」 エフィオが垂れた耳を揺らしながらニルバに問う。一度決めてしまえば早いのがランバートの性格だという事をニルバは知っている。 「構わない。 しかし普段仲良くしようぜなんて言っておきながら、この程度であんなにバラバラになるとはね、無様だろ?」 侮蔑の表情を露わにしながら、ニルバは口元だけで笑ってみせる。 「にしてもあいつ猫人かと思えばバケモノかよ……」 「それでも庇うメトもメトだぜ」 「ま、結局アイツもよそ者だったって事さ」 ニルバに釣られて三人はそれぞれ悪態をつき始める。クィードは一人その中に交わらず、噛まれた自分の手を見つめていた。傷は浅いのか、血が流れ落ちる様子はない。 「だから、『既に決まっている』と言ったんだ」 その様子を見下ろしながらニルバは小声で呟く。四人に背を向け空を見上げれば既に日は沈み、青黒さが覆いつつある。 (これで良い、これで……) ズボンのポケットに手は入れたまま、ニルバは思う。レコが猫人であれば、クィードは行ってしまったかもしれない、そうなればライルも行くだろう。 だが、彼が猫人でないとすれば?ましてや、この村では忌むべき混血だとすれば? それを知ればこの村に住む者は容易には近づけまい。情報を得たニルバはこの場を設定した。そしてそれは予想以上に上手くいった。 メト達は自ら決別をしてくれた、ランバート達は忌避感から無様な姿を晒してくれた。これ以上の結果は得られまい。 (だけどつまらないね……なんだか) 達成感も満足感もない、虚しさだけが後にはあった。気だるげな面持ちで、ニルバは歩き出す。もう、こんな場所にいる必要はない。その後ろには無言で四人が続く。 最後に扉をくぐるクィードは一度だけ振り返った。 「……バカだな、アイツ」 噛まれたはずの手、その毛皮を撫でると露わになるはずの傷口はそこに無い。あの土壇場でも、メトはクィードを傷つけようとはしなかったのだ。 「そう言う時ぐらい、思いっきりやれよ……」 地面に垂れたのは拳を受け止めた際に傷ついた口内から出た血−−−つまりメトのものだ。 だがそれを言っても状況は変わるまい。優しく噛み付かれたなどと、誰も信じまい。真実を知るクィードは黙して語らず、目尻を拭うと乱暴に扉を閉めた。 同じ頃、屋上を後にしたメト達は暗くなり始めの廊下を無言で歩き続けていた。 「……」 互いに何を話せばいいのか分からなくて、或いは自分の不甲斐なさを許せなくて、話すことが許されない、そう思い込んでしまっていた。それでも離れようとはせず、二人は隣り合ったまま進む。 「……あ」 何度目になるだろうか、レコが話しかけようとメトの顔を覗き込んだその時、走ってくる音に気がついた。メトも同様に気がついてか、音のなる方向に向けて顔を上げた。 「メト」 「ああ」 続けざまに響く、目の前の階段を駆け上がる音、レコはその急ぎ方に危機感を覚え壁に寄るようにメトに促す。 「……!!」 果たして飛び出してきた影は目の前を風のように過ぎ−−−なかった。避けようとした二人を視認するや踵を返し、身を低くしてブレーキをかける。 「お前ら……」 「ライルか」 二人を探していたのか、ライルは足を止めると上がった息もそこそこに安堵の表情を見せた。 「よかった、無事……」 だがすぐにその表情は曇る。二人の口元に浮かぶ血、レコの乱れた毛並み、メトの服に付いた血混じりの染み。何があったのか悟るには十分な材料だ。 「遅かった……か」 ライルは悔しげにつぶやくと、ぎりっと音を立てて歯噛みした。 「気にするなよ、きっと結果は一緒さ」 「お前……」 力なく微笑むメトを見て、彼は顔半分を手で覆う。抑えようがない悲しみを、そこに溢れさせて。 「ライル君、知ってたの?」 「ああ、そうだ……知ってて、何もできなかった」 見れば彼の服も毛皮も埃にまみれている。汚れで言えば二人より酷いだろう。 「……閉じ込められた、出れたのがついさっきだ」 視線に気がついたか、気まずそうにそっぽを向いて肩を払うと幾筋かの毛と共にふわっと埃が舞った。 「なんでそんな……」 「邪魔だったんだろう、俺が」 二人にもそれはなんとなく理解できる。もっともメト寄りの立場で動いてたその場面を別々とは言え見ているが故に。 「……とりあえず、保健室に行……」 「……?」 突然歯切れの悪くなったライルにメトは首を傾げた。だがすぐさま理解に至る。複数の足音がまさに屋上の方向から聞こえてきたのだ。 「まさか、追ってきたのか?」 「分かんないけど、隠れなきゃ」 誰が来るとも知りようもない二人は当然のように警戒し、隠れられそうな場所を見回す。 「そこだ」 「助かる」 ライルが指差したのは階段手前の空き教室。二人は素早く入り込むと並べられた机と壁の間にピッタリと張り付き、身を低くする。 やがて複数の足音が迫って来る。最初は走る音が二つ、次に三つ。この教室の横まで来てライルに気づいてか、足音が止まる。 「やあ、ライル君」 聞こえてくる声は、ランバートのものだ。彼ならば自分たちに危害を加えるわけではないだろう、二人は隠れながらも胸をなでおろした。 向こうに行ったとライルは説明しているが無駄だっただろうか−−−そう思った矢先、 「でも、本当に助ける必要なんかあるのか?」 「……何?」 「血混じりに、カミツキとか、俺は嫌だな」 嫌悪を隠そうとしない言葉が二人の耳に飛び込んでくる。安堵から一転、空気に緊張を走らせる。だがメトはそれを当然だとも思う。自分だって噛み付くような人と一緒にいたくはないのだから。 「カミツキ、か」 それこそルールを破り、噛み付いたものへの蔑称。彼自身、まさかその仇名で呼ばれる日が来ようとは思ってもいなかった。これで、ニルバ達だけでなく、周り皆がカミツキとして後ろ指をさすことだろう。 「ふふ」 暗い確定的な未来を思い、メトから漏れてきたのは笑みだった。しかし、気遣ったレコがそっと手を重ねるとそれだけでも、心はわずかに軽くなるのだった。 「もう、近づかない方がいいって……」 「シャオック、ガヴェル、さっきも言ったけど無理はしなくていいんだよ。 僕はただ個人的に助けたいだけなんだから」 一方外からはたしなめるようにランバートの声が聞こえてくる。大分こじれてはいるが、あくまでも彼の主張は変わらない。 「悪いけど、そうさせてもらうよ」 「ただ、俺たちはお前がカミツキと一緒にされるのが嫌なんだ」 「……分かってる」 三つの足音は別の方向へ、おそらく昇降口へ行くのだろう。そして聞き取れない声が二言、三言交わされると、二つの足音がまた駆けて行く。心配してくれる二人の厚意を無下にするように隠れて続けているのに、メトは罪悪感を覚えた。 「……もう、いいぞ」 「ああ」 数秒間を置き、教室の入り口から遠慮がちに声がかかり、二人は立ち上がる。戸に手をかけて、ライルが待っている。耳は伏せ、顔は苦虫を噛み潰したような表情で。 「お前、噛み付いたのか……」 「……ああ」 「なんで……いや、分かってる、アイツはそうでもしないと……だけど……」 状況から決裂したのはライルは分かっていたが、けれども噛み付くことまでは予想外であった。頭ではその行為は理解できても、気持ちが追いついていかず、言葉がまとまらない。 「聞いて、ライル君……メトは、僕を守るために……」 「しなくちゃいけなかったんだ、ごめん」 説明しようとするレコを遮り、メトが割って入る。それは守られた側に気負わせないための、気遣い。それだけ彼にとってはそこにいる血混じりは大切なのだ。 ライルにとって到底納得できる答えではなかったが、何故噛み付いてしまったのかの、理解はできた。 「そうか……」 だから、何も言えなくなってしまう。 「もう行かなくちゃ、後から来るあいつらに見つかったら、面倒だろ?」 「ああ……」 メトの言う通り、程なくニルバ達が来るだろう。その時にカミツキとなった彼と、血混じりのレコと一緒に居て何が起こるかなど想像に難くない。何も否定できない、ライルには何も言えない。 「ありがとな」 それが恐らく、決別の言葉。噛み付かれてそうなるよりは、よほどマシなのだろうと彼は思う。 「なあ、一ついいか」 だけれども、どうしても我慢ならない事があった。 「え、僕?」 それは一人ではどうしようもない事、いや、それ以上に誰がどうしても変えられない事、それを言っても、変わらない事。 「どうしてお前は、猫人ですらなかったんだ……」 それでもライルは、自分の寂しさを、メトに重ね合わせて、レコにぶつけざるを得なかった。 彼が犬人であれば、仲良くできたかもしれない、猫人であれば、苦しさを乗り越えようとしたクィードと一緒に歩む事もできたかもしれない、だが、現実は違った。 「ライル……!」 血相を変えたメトを手で制して、レコはゆっくりと首を振った。 「……僕はね、生まれたくてこうなったわけじゃないよ」 混血の忌み子とされた彼は、すがりつくようなライルの問いに、さっきのメトと同じように寂しそうに微笑んで答えた。 「……そう、だろうな……」 ただ感情をぶつけただけ、答えなどありもしない理不尽な問いだ。殴られても文句は言えない、耳も尻尾も力なく垂らしながら、そう覚悟していた。 「行こう」 「うん」 だがその覚悟を置き去りにして、彼らは責めもせず去って行く。 互いに気遣っているはずなのに、すれ違っていく理不尽を、ライルはこの上なく感じていた。 * 紫を越えて、群青色となりつつある宵の空。帰り道を二人が歩く。朝とは正反対に手を繋いだ胸の高鳴りもなく、その歩みはただ重苦しく。廊下、昇降口、校庭……風景がただ鈍く過ぎ去るのみ。 「レコ」 「……?」 気がつけば既に朝に待ち合わせた大木の下。ようやく口を開いたメトは、足を止めて木を見上げた。 「お前は、良いのか? 俺……カミツキだぜ?」 その質問が意味するところは、レコにはなんとなく分かった。 「……どうして、そんな事言うの?」 きっと同じ気持ちなんだろうと思いながらも、彼は聞き返す。お互いの気持ちを、確かめておきたかった。 「俺と一緒にいたら、危ないかもしれないだろ? だから……」 「だから離れろって?」 「……ああ」 目を合わせようともせず、メトは短く肯定する。 「……」 その答えに満足するわけもなく、レコは見上げたままの彼の前へ回り込むと、その体を包むようにそっと抱きしめる。抵抗はないが、少し驚いた顔が目の前に来る。 「……君こそ良いの? 僕は血混じりなんだよ?」 先の問いに行為で示しながら、レコは逆に問うてみせる。 「む……」 「…………」 予想していなかったのか、言葉に詰まり、困ったように目を泳がせるメト。しかしレコはただ無言でじっと見つめるばかりで、彼の返答を待っている。 「はぁーっ……」 十秒ほどそうしていただろうか、メトは深くため息をつくと、言葉に出す代わりにおずおずと抱き返した。思わず尻尾が持ち上がってしまってレコは恥ずかしそうに身じろぎをする。 「ずるいぞお前、そんなこと言われて離れるわけねーだろ」 「お互い様、でしょ?」 にっと歯を見せて笑うレコに対し、やや憮然としてメトは口を尖らせる。だが、二人を囲う空気は確かに軽くなっていた。 「……酷い目にあっても知らねーぞ」 「もうあってるじゃん」 これからも、その先も、そうかもしれないけれど−−−それでも。 「っ……バカだな、お前」 「君に言われたく……っないよ……離れたくないって、言ったじゃん……」 抱きしめる腕に力がこもり、嗚咽が漏れる。諦め、感謝、罪悪感、寂しさ、一息には言い表せない感情が混ぜこぜになって、堰を切って流れ出す。 「ごめん、ごめんな……やっぱり俺、お前を傷つけちまった……ううっ……」 「大丈夫、僕は……大丈夫だから……だから一緒にいて? 離れるなんて、言わないでよぉ……」 二人の嗚咽はだんだんと大きくなっていき、やがては慟哭と呼べるほどの大きさであたりに響き渡る。その声は辺りが完全に暗闇に包まれるまで、二人がこの木の下で出会ったあの時まで、続くのだった。 続く |
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